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BUMP OF CHICKEN「ギルド」の歌詞を、苫米地英人風の視点で解説してみた

「ギルド」歌詞が映し出す人間の認知と自由の葛藤

BUMP OF CHICKENの「ギルド」は、単なる感情表現にとどまらず、人間の認知構造や心理的葛藤を鮮烈に描いています。この楽曲は、私たちが「人間」という存在に課された役割をどのように受け入れ、または抗うのかという深遠なテーマに挑んでいます。

1. 「人間という仕事」とは何か?

冒頭の「人間という仕事を与えられて」というフレーズは、私たちが生まれながらに与えられた社会的役割や期待を象徴しています。苫米地式認知科学の視点で考えれば、これは「コンフォートゾーン(快適領域)」の形成を指します。人々はこの役割を無意識のうちに内面化し、外部からの評価に囚われるようになるのです。

この「仕事ではないと解っていた」という言葉には、本来の自由な自己を取り戻したいという潜在的な欲求が込められています。しかし、現実はその「自由」を奪い、「仕事」という制限された存在に変えてしまう。これは、社会的洗脳や制約がどのように人間の認知を縛るかを示しています。

2. 「汚れちゃったのはどっちだ?」:現実と自我の二項対立

この歌詞は、現実世界が汚れたのか、自分自身がそうなったのかという問いを投げかけています。この問いは、苫米地理論でいう「スコトーマ(心理的盲点)」に関連します。私たちは、自分の認知フィルターを通してしか世界を見ることができません。したがって、外の世界の問題と自分の内面の問題は、しばしば不可分に交錯します。

「その瞳は開けるべきなんだよ」というメッセージは、スコトーマを外し、現実を直視する重要性を訴えています。これは、真の自由への第一歩です。

3. 「まともな日常」に隠された狂気

繰り返される「まともな日常」というフレーズには、苫米地理論でいう「自己洗脳」が垣間見えます。人々は繰り返しの中で安心感を得る一方、その中に潜む狂気や矛盾に気付けないまま生きてしまいます。この楽曲は、その「まともさ」に潜む違和感を直視させる力があります。

まとめ

「ギルド」は、現代人が抱える役割と自由の葛藤を鮮烈に描き、真の自己を取り戻すための道筋を示唆する作品です。苫米地英人の理論に基づけば、この歌詞は単なる感情表現ではなく、私たちが認知の罠から解放されるためのヒントを与えてくれるといえます。

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守屋吉之助🌈Healing artist
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