な日的記 10/15

昨日寝ぼけすぎて「ガジュマル」と「カジュアル」を見間違いました。
日記的なエッセイ「な日的記」です。

そしてこのエッセイではランダムに選ばれた5つの単語を
その時認識した単語としてテーマとする企画です。

使用しているサイトはこちら↓

そして今回の単語はこちら、


エゴサーチ

エゴサーチできるくらい有名になりたいです!!!!!!!!!!!
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痛車

痛車に限らず、改造された車とかを見るのは結構好き、普通にデザインとしてよくできている痛車を見ると、そこに張り付いている人物を知らなくてもテンションが上がってしまう。

キャラクターが載っていない痛車はあるのだろうか?見たことないが、たとえばサイバーパンク風に彩られた痛車なんか面白そう。その内溶接とかできる人たちが本気で作ったステッカーじゃなくて本物のサイバーパンク風の車が完成してステッカーの痛車に対して「生ぬるい」って言いだしてひと悶着生むところまで含めて。

ゲーム機

ゲーム機を買ってもらえない家庭だったので、ゲームと言えば親のケータイ(ガラケー)の中に入っているゲーム(無料版)をたまにさせてもらえる程度だった。それも十分面白かったんですよ、桃鉄のケータイ版があってかなりやり込みました。

それでもいとこの家とか、友達の家に行くと、”本物”のゲーム機があって、大きな画面でゲーム出来て、ボタンの配置になれなくて、2~3時間やっても一回くらいしか押してないLとかRとかのボタンがあるのが、楽しかった記憶として残っているんです。

今は自分でゲームを買えるのですが、PCでできるゲーム以外はしていないです。任天堂とかソニーのゲーム機は今も持っていません。でもコントローラーを手に入れて、LとRを使えるようになりました。またやり込みます。

親殺しのパラドックス

親殺しのパラドックスは、タイムトラベルにまつわるパラドックスで、SF作家ルネ・バルジャベルが1943年の著作で祖父に置き換わった形で描いた。英語では grandfather paradoxと呼ぶ。すなわち、「ある人が時間を遡って、血の繋がった祖父を祖母に出会う前に殺してしまったらどうなるか」というものである。

Wikipedia

根拠はないが、どんな世界でも私は生まれていただろうという自信がある。親が違う人間でも、生まれた国が、時代が違えど、私はその時代でよろしくやっている(いた)だろうという自信が。

もちろん今の私を形成したいくつかの要素、特に幼少期はほとんどの要素を両親から受け取っているし、両親には深く感謝している。それでも私はいたと思っている。

しかしそれは私が凡庸で、いつでもどこでもいるような人間であると言いたいわけではない。それでも世界を揺るがすような重要人物だとホラを吹きたいわけでもない。

ゴリラのアルビノのような、三毛猫のオスのような、ありふれた中にある特異性を、希少性がありすぎない個性を、自分の中に見出したいというありふれた欲望を持っているというだけなのかもしれない。

メルケルの斜方形

メルケルの斜方形またはメルケルのひし形は胸の下に指が触れあうように手を置くハンドジェスチャーで、「斜方形」は親指と人差し指が四角に似た形をつくることから来ている。ドイツの首相であるアンゲラ・メルケルの代名詞的な仕草である。

Wikipedia

笑えないくらい同じようなことをしている自覚がある。
しゃべっているときの手の置き場に困っているんです。ずっと、いつもいつも手を使っていないと落ち着かないんです。何なら、目も耳も、常に働かせていないと落ち着けない。だから本を読みながら音楽を聴くし、音楽を聴きながらタイピングをしている、しゃべりながら手を斜方形に組むし、しゃべりながら隣の知らない人の会話も聞いている。

脳のキャパシティに余白があるのが不安なのだ。

おまけ

好きなものについて話す人は老若男女問わずとても魅力的に見える。

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