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「弁道話」を学ぶ(2)
諸仏如来、ともに妙法を単伝して、
阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これただほとけ仏にさづけて、
よこしまなることなきは、
すなはち自受用三昧、その標準なり。
諸々の仏・如来は、共に優れた仏の悟りを正しく証してこられた。それは絶対に間違うことのない智慧の境地に浸るという最も優れた方法である。これを「自受用三昧」と言う。正覚の標準である。
【註】「阿耨菩提」(アノクボダイ)は「阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボサツ)の略語。般若心経にも出てくる言葉で「無上等正覚」とも訳され、”仏の有する最高の智慧”を意味する。「自受用三昧」は、功徳を自ら受用し涅槃の境地に浸る意味で用いられている。
三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
この法は、人人の分上に、ゆたかにそなはれりといへども、
いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるには、うることなし。
この三昧に遊ぶには身を正して坐禅する。それが正しい方法である。この(自受用三昧の)法は、すべての人々自身に豊かに具わっているが、修行しなければ現われず、証明しなければ得られない。
はなてば、てにみてり、一多のきはならむや。
かたれば、くちにみつ、縦横きはまりなし。
諸仏のつねに、このなかに住持たる、
各各の方面に知覚をのこさず。
この法は、手放せば手に満ちる。その量は多い少ないの域を越えており、語れば言葉は口に満ちて縦横窮まるところなし。諸仏は常に、この三昧の中にましまし、見聞覚知のいずれにも知覚を残すことはない。
群生のとこしなへに、このなかに使用する、
各各の知覚に方面あらはれず。
いまおしふる功夫辨道は、証上に万法をあらしめ、
出路に一如を行ずるなり。
その超関脱落のとき、この節目にかかはらむや。
人々が永久にこの三昧の中で使用している知覚には、その方面が現れることはない。今ここで教える修行精進は、悟りの法の上に一切の存在を在らしめて、解脱のために一如の自己を行ずるものである。自他を隔てる関を超えて脱落したならば、これまでの教理の細目に頼ることはなくなる。
予、発心求法よりこのかた、
わが朝の遍方に知識をとぶらひき。
ちなみに建仁の全公をみる。
あひしたがふ霜華すみやかに九廻をへたり。
いささか臨済の家風をきく。
私は、発心して仏法を求めてから此の方、我が国の各地に仏道の善き師を訪ねた。縁故によって建仁寺の明全和尚様に会い九年を経た。この時、ほんの少し臨済宗の宗風を聞くことが出来た。
全公は祖師 西和尚の上足として、
ひとり無上の仏法を正伝せり。
あへて余輩のならぶべきにあらず。
明全和尚は、祖師 栄西和尚の高弟で、ただ一人無上の仏法を正しく伝えた人で、我々の及ぶような方ではない。
予、かさねて大宋国におもむき、
知識を両浙にとぶらひ、家風を五門にきく。
つひに太白峰の浄禅師に参じて、
一生参学の大事ここにをはりぬ。
それよりのち、大宋 紹定のはじめ、本郷にかへりし、
すなはち弘法求生をおもひとせり。
なほ重担をかたにおけるがごとし。
私(道元)は、更に大宋国に赴き、浙江省の東西の善知識を訪れて、禅の五門の家風を尋ねた。ついに太白峰(天童山景徳禅寺)の如浄禅師に参じて一生に学ぶべき仏道を悟ることが出来た。その後、大宋国 紹定の年の初めに郷里に帰った。仏法を広め人々を救うことを願いとしたが、それは重い荷を担ぐような気持ちであった。
しかあるに、弘通のこころを放下せん、
激揚のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄して、
まさに先哲の風をきこえんとす。
ただし、おのづから名利にかかはらず、
道念をさきとせん真実の参学あらんか。
しかし、今は仏法を広める心を打ち捨てようと思う。仏法を激しく興す時機を待つためである。暫くは雲や浮草のように居所を定めず、まさに先哲の家風に倣おうと思う。まれに名利にかかわることなく、道心を第一とする真実の修行者もいることであろう。
いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解をおほひ、
むなしく自狂にゑふて、ひさしく迷郷にしづまん、
なにによりてか般若の正種を長じ、得道の時をえん。
その者が、いたずらに邪師に惑わされて妄りに正しい理解を覆い隠し、空しく自分の狂惑に酔って、久しく迷郷に沈むことになれば、この者はいったい何によって般若の正法の種を成長させ、仏道を会得する時を得たらよいのだろう。
貧道はいま雲遊萍寄をこととすれば、
いづれの山川をかとぶらはん。
これをあはれむゆゑに、
まのあたり大宋国にして禅林の風規を見聞し、
知識の玄旨を稟持せしを、しるしあつめて、
参学閑道の人にのこして、仏家の正法をしらしめんとす。
これ真訣ならんかも。
私は今、雲や浮草のように居所の定まらぬ身なれば、私を訪ねようにも、どこの山や川を訪ねればよいか戸惑うであろう。これを哀れに思うので、私が目の当たり大宋国で見聞した禅道場の規則や、受け伝えてきた善知識の深い宗旨などを集めて記し、仏道を参学する人に残して仏家の正法を知らせようと思う。これは仏道の正道である。