「行持」を学ぶ(2)
【仏の道:遠望・近見】 (161)
「行持」を学ぶ(2)
その行持の功徳、ときにかくれず。
かるがゆゑに発心修行す。
その功徳、ときにあらはれず。
かるがゆゑに見聞覚知せず。
その行持の功徳は、時に隠れることなく現れる。そのために発心し修行するのである。又、その功徳は時に現れない。そのゆえに何の見聞も、覚知もなく、気付くことがない。
あらはれざれども、かくれずと参学すべし。
隠顕存没に染汙せられざるがゆゑに。
しかし、功徳は現れなくても、隠れることはない、やがて現れると学ぶべし。仏道は有る無しという見方に汚されることはないからである。もともと関係がない。
われを見成する行持、いまの当穏に、
これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会なるは、
行持の会取、さらに新条の特地にあらざるによりてなり。
真の自己を実現する行持に於いて、今のように功徳が見えない時に、この行持がどのような縁起の法による行持なのか分からないのは、行持で会得するものが、決して新しい特別なものではないからである。
縁起は行持なり、
行持は縁起せざるがゆゑにと、
功夫参学を審細にすべし。
縁起の法は行持であり、行持は縁起しないものである。
その詳細に学ぶべし。
かの行持を見成する行持は、
すなはちこれわれらがいまの行持なり。
諸仏の行持を実現する行持とは、我々の今の行持なのである。
行持のいまは、自己の本有元住にあらず。
行持のいまは、自己に去来出入するにあらず。
行持の今は、自己に元からあるものではない。また行持の今は、自己に去来出入するものでもない。
いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、
行持現成するをいまといふ。
今という道は、行持より前にあるのではなく、行持が行われる時を今というのである。
しかあればすなはち、
一日の行持、これ諸仏の種子なり、
諸仏の行持なり。
であるから、すなわち、この一日の行持は諸仏の種子であり、諸仏の行持なのである。
この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、
行持せざるは、諸仏をいとひ、諸仏を供養せず、行持をいとひ、
諸仏と同生同死せず、同学同参せざるなり。
この行持によって諸仏が現れ、諸仏の行持が行われるのに、行持しないでいることは、諸仏を嫌がり、諸仏を供養しないことであり、また諸仏の行持を嫌がり、諸仏と生死を共にせず、大道を共に学ばないことなのである。
いまの華開葉落、これ行持の現成なり。
磨鏡破鏡、それ行持にあらざるなし。
今日の、花が開き、葉が落ちることも、日々の行持の姿である。自らの鏡を磨いて清浄にすることも、その清浄な鏡さえ割って、それに捕らわれないようになることも、行持でないものはない。
このゆゑに、行持をさしおかんと擬するは、
行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、
行持をさしおくも行持なるによりて、
行持におもむかんとするは、
なほこれ行持をこころざすににたれども、
真父の家郷に宝財をなげすてて、
さらに他国玲跰の窮子となる。
このために、行持を後回しにしようとする者は、行持を逃れたい邪心を隠すために、行持をしないことも行持の一つであると言って、それで仏道修行をしようとするのですが、それは一見行持を志しているように見えるが、父の故郷に財宝を投げ捨てて、困窮して他国にさまよう息子になるようなものである。
玲跰のときの風水、たとひ身命を喪失せしめずといふとも、
真父の宝財なげすつべきにあらず。
その放浪の時の風雨で、たとえ身命を失わなくても、父の財宝は投げ捨てるべきではない。
真父の法財なほ失誤するなり。
このゆゑに、行持はしばらくも懈惓なき法なり。
行持がなければ、父の法財をまた誤って失うことになる。このために、行持は暫くも怠ることのない法なのである。
【語義と解釈】
続くテーマは「行持の功徳」である。
道元禅師は、ここで行持の功徳について教示される。「功徳」は「人や世の中のためになる善行」と解されているが、増谷文雄氏は、ここでは「ちから」と解した方が分かり良い。(道元禅師は)「諸仏も行持なくしては実現することがない」と言っておられるのである、と解釈されている。
◯ 染行(ゼンマ):諸々の煩悩によって純粋さが汚されていることを
いう。いまは、その功徳の隠顕を考えることが行持の純粋性と
関わりないことを指す。
◯ 新条の特地:特別に新しい筋道。道元独自の用語で、そんなものは
ない、と断ずる。行持は常に変わらず淡々として行われる故で
ある。「条」は筋道のこと。
◯ 縁起は行持:ここでは縁起は何か条件が発生する。
それに対して然るべき態度が淡々としてとられる。それが行持で
あると説く。その行持は、いかなる条件に対してもいつも淡々
として変わることはない。「行持は縁起せず」とはそういう意味
である。
◯ 供養せず: ここでは「尊敬」の意味で用いられている。
◯ 華開・葉落: 次の「磨鏡破鏡」共に道元独自の言い回しである。
道元用語として知られる言葉に「華開世界起」があるがこれは
行持によって発生すると解されている。言葉の意味の背後に広
がる含意を汲み取らねばならない。
◯ 磨鏡破鏡: 上記の通り、言葉の含意を考察すべきである。
増谷氏はここでは、「上求菩薩」「下化衆生」を意味すると
解すべきだ、とする。
◯ 行持をさしおかんと擬する云々:例えば、「神我」を主張する「外道」
や仏法の本有に安住する仏者の中には
「断絶することなき行持」を無用とする説をなす者を言う。
◯ 真父の家郷:『法華経』の「長者窮子」の喩えを持って語る。