「弁道話」を学ぶ(8)


[ 心性について ]

とうていはく、
「あるがいはく、生死をなげくことなかれ、
生死を出離するにいとすみやかなるみちあり。
いはゆる、心性の常住なることわりをしるなり。
そのむねたらく、この身体は、すでに生あれば
かならず滅にうつされゆくことありとも、
この心性はあへて滅することなし。


問うて言う、
「ある人が言うには、生死流転を嘆くことはない。生死流転を離れるのに大層早い方法がある。いわゆる、心の本性は変わることなく常に存在するという道理を知ることだと。
 その道理とは、この身体は、まさしく生まれれば必ず滅して行くものであるが、この心の本性はまったく滅しない。

よく生滅にうつされぬ心性わが身にあることをしりぬれば、
これを本来の性とするがゆゑに、身はこれかりのすがたなり、
死此生彼さだまりなし。
心はこれ常住なり、去来現在かはるべからず。
かくのごとくしるを、生死をはなれたりとはいふなり。

この生滅に動かされない心の本性が、我が身にあることを知れば、これを自分の本来の性とするので、身は仮の姿であり、ここに死して彼の所に生まれるという決まりはない。心は常に存在していて、過去 未来 現在に変わることはない。このように知ることを、生死流転を離れたと言うのである。

このむねをしるものは、
従来の生死ながくたえて、
この身をはるとき性海にいる。
性海に朝宗するとき、諸仏如来のごとく、
妙徳まさにそなはる。

この道理を知る者は、今までの生死流転が長く絶えて、この身が終わる時には、本性の海に入る。その本性の海に集まる時には、諸仏如来のように優れた功徳がまさに具わるのである。

いまはたとひしるといへども、
前世の妄業になされたる身体なるがゆゑに、
諸聖とひとしからず。
いまだこのむねをしらざるものは、
ひさしく生死にめぐるべし。

今は、たとえこれを知ったとしても、前世の妄業によって変えられた身体なので、聖人たちと同じではない。まだこの道理を知らない者は、長く生死を巡るであろう。

しかあればすなはち、
ただいそぎて心性の常住なるむねを了知すべし。
いたづらに閑坐して一生をすぐさん、
なにのまつところかあらん。かくのごとくいふむね、
これはまことに諸仏諸祖の道にかなへりや、いかん。」

このようであるから、急いで心の本性の常住である道理を知りなさい。空しく坐禅して一生を過ごして、何の得るところがあろうかと。この言葉の道理は、実に仏や祖師方の道に叶っているであろうか。」

しめしていはく、
「いまいふところの見、またく仏法にあらず、先尼外道が見なり。」
いはく、
かの外道の見は、わが身うちにひとつの霊知あり、
かの知、すなはち縁にあふところに、
よく好悪をわきまへ、是非をわきまふ。
痛痒をしり、苦楽をしる、みなかの霊知のちからなり。

教えて言う、
「今言うところの見解はまったく仏法ではありません。先尼という外道の見解です。」その外道の見解を言えば、我々の身体の中には一つの霊知があり、その霊知は、縁に会えばよく好悪を分別し、是非を分別し、また痛痒を知り、苦楽を知る。これらは皆、その霊知の力である。

しかあるに、かの霊性は、この身の滅するとき、
もぬけてかしこにうまるるゆゑに、ここに滅すとみゆれども、
かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。
かの外道が見、かくのごとし。

そして、その霊知の本性は、この身が滅する時には、脱け出て他に生まれるために、我々はここで滅するように見えても、他の生があるので、永久に滅せずして常住であると言う。その外道の見解はこのようだ。


しかあるを、この見をならうて仏法とせん、
瓦礫をにぎりて金宝とおもはんよりもなほおろかなり。
癡迷のはづべき、たとふるにものなし。
大唐国の慧忠国師、ふかくいましめたり。

しかしながら、この見解を学んで仏法とするのは、瓦礫を握って黄金と思うよりも、もっと愚かなことである。愚迷の恥ずかしいこと例えようがない。これを大唐国の慧忠国師は、深く戒めている。

いま心常相滅の邪見を計して、諸仏の妙法にひとしめ、
生死の本因をおこして、生死をはなれたりとおもはん、
おろかなるにあらずや、もともあはれむべし。
ただこれ外道の邪見なりとしれ、みみにふるべからず。

今、心は常住で身相は生滅する、という悪しき考えを計って、諸仏の優れた法に等しいものとし、生死流転の根本原因を起こして、生死流転を離れたと思うことは、愚かではないか。本当に哀れなこと。もっぱらこれは外道の悪しき考えと知るべし。耳をかしてはならぬ。

「ことやむことをえず、いまなほあはれみをたれて、
なんぢが邪見をすくはん。しるべし、
仏法には、もとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる、
西天東地おなじくしれるところ、あへてうたがふべからず。

「黙ってはいられないので、今、 更に哀れみを垂れあなたの悪しき考えを救くおう。知るべし、仏法では、元来 身と心は一つのもので、本性と身相とは二つではないと説くこ。これは、インドや中国でも同様に知られていることであり、あえて疑うことではない。

いはんや常住を談ずる門には、万法みな常住なり、
身と心とをわくことなし。寂滅を談ずる門には、
諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし。
しかあるを、なんぞ身滅心常といはん、
正理にそむかざらんや。
しかのみならず、生死はすなはち涅槃なりと覚了すべし、
いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。

まして常住を説く教えでは、すべてのものが皆、常住であり、身と心とを分けることはあない。また寂滅を説く教えでは、あらゆるものが皆 寂滅であり、本性と身相とを分けることはない。それなのにどうして、身は滅するが心は常住である、と言うのか。正しい法理に背いていないか。
それだけでなく、生死流転はつまり涅槃(煩悩の滅)であると悟るべし。いまだ生死流転の他に涅槃(煩悩の滅)を説くことはないのである。

いはんや心は身をはなれて常住なり
と領解するをもて、生死をはなれたる仏智に妄計すといふとも、
この領解知覚の心は、すなはちなほ生滅して、またく常住ならず。
これ、はかなきにあらずや。」

まして、心は身を離れて常住であると理解することが、生死流転を離れた仏の智慧であると妄りに考えても、この理解し知覚する心は、依然として生滅して全く常住ではない。これでは頼りにならないではないか。」

「嘗観すべし、身心一如のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。
しかあるに、なんぞこの身の生滅せんとき、
心ひとり身をはなれて生滅せざらん。
もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、
仏説おのづから虚妄になりぬべし。

「よく観察せよ。身と心は一如である、という主旨は、仏法が常に説いていることを意味する。それなのに、なぜこの身が生滅する時に、心だけが身を離れて生滅しないのか。もし一如の時があり、一如でない時もあれば、仏の説は自ずから虚妄になるであろう。

又生死はのぞくべき法ぞとおもへるは、仏法をいとふつみとなる。
つつしまざらんや。しるべし、仏法に心性大総相の法門といふは、
一大法界をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。

又、生死流転は除くべき法だと思うならば、仏法を厭う罪になる。慎まなければならぬ。知るべし、仏法にある心性大総相(心の本性は、あらゆるものを包み込んだ平等の一心である。)の教えというのは、全世界を含めて、本性と形相とを分けることなく、生滅をいうこともないということを。

菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし。
一切諸法 万象森羅、ともにただこれ一心にして、
こめずかねざることなし。
このもろもろの法門、みな平等一心なり、
あへて異違なしと談ずる、
これすなはち仏家の心性をしれる様子なり。

仏の悟り、煩悩の滅に至るまで、心の本性でないものはない。すべてのものごと、あらゆるものは、皆ただこの一心であって、その中に含まれないもの、兼ねないものはないのである。
このすべての教えが、「皆、平等の一心であって、少しも異なることはない。」と説いているのは、仏家が心の本性を理解している様子なのである。

しかあるを、この一法に身と心とを分別し、
生死と涅槃とをわくことあらんや。
すでに仏子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひびきを
みみにふるることなかれ。」

それなのに、この一つの法に於いて、身と心とを区別し、生死流転と煩悩の滅とを分けることがあり得ようか。我々は、すでに仏弟子なれば外道の見解を語る狂人の話を聞いてはならぬ。」

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