『修証義』第五章「行持報恩」
第二十六節
此(この)発菩提心(ほつぼだいしん)多くは南閻浮(なんえんぶ)の人身(に んしん)に発心すべきなり、今 是(かく)の如くの因縁あり、願生(がんしょ う)此娑婆(ししゃば)国土(こくど)し来れり、見(けん)釈迦牟尼仏を喜ばざ らんや。
【訳文】
人間としてこの世界に生まれたのなら、折にふれて「仏陀ならどうするだろう か」と思惟し、自分もまた人々を救う菩薩として生きていこうという志しを立てる ことが肝要である。
私たちは人間世界に人間として生まれ、苦楽相半ばする人生を 送っている。苦楽があるからこそ、精進しようという心が生まれるのである。私た ちは不思議な巡り合わせでこの世界に生まれた。
それはただの偶然ではなく、仏の 道を歩むため、自らの誓願によってこの世界に生を受けたものだと言えるのではな いか。だから菩薩としての人生を全うし、仏教と出会えてことを喜ぼうではない か。
第二十七節
静かに憶(おも)うべし、正法(しょうぼう)世に流布せざらん時は、身命(しん めい)を正法(しょうぼう)の為に拠捨(ほうしゃ)せんことを願うとも値(お) うべからず、正法に逢う今日(こんにち)の吾等(われら)を願うべし、見ずや、 仏の言(のたま)わく、無上菩提を演説する師に値(あ)わんには、種姓(しゅ しょう)を観ずること莫(なか)れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、行 いを考うるこ莫れ、但(ただ)般若を尊重(そんじゅう)するが故に、日日(にち にち)三時に礼拝し、恭敬(くぎょう)して、更に患悩(げんのう)の心を生ぜし むること莫れと。
【訳文】
静かに考えてみなさい。「本当に正しいことは何か」と説き続けた仏陀の教えが 世に広まっていなかったら、仏陀のように生きようと思っても、教えが存在しな いのだからわからないことばかりである。幸いにも仏法の何たるかを知ることがで きる環境にいるのだから、その教えを学ぶことが大切だ。
仏陀はこう言っている。「本当に正しいこと」を考え、それを説く人に出会ったなら、生まれや性別や年齢 や外見に関係なく、その言葉に耳を傾けなさい。その人の欠点やどうにも好きにな れない行いがあっても、それらの理由でその人の言葉を嫌ってはいけない。真実に ついての教えは、必ず敬うように。そして、礼節をもって接し、尊敬の念をもって その言葉から真実を学びなさい、と。
第二十八節
今の見仏聞法(けんぶつもんぽう)は仏祖面面(ぶっそめんめん)の行持より来れ る慈恩なり、仏祖若(も)し単伝(たんでん)せずば、奈何(いか)にしてか今日 に至らん、一句の恩 尚(な)お報謝(ほうしゃ)すべし、一法の恩 尚お報謝すべ し、況(いわん)や正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)無上大法の大恩これを報謝せ ざらんや、病雀(びょうじゃく)尚お恩を忘れず三府(さんぷ)の環(かん)能 (よ)く報謝あり、窮亀(きゅうき)尚お恩を忘れず、余不(よふ)の印(いん) 能く報謝あり、畜類(ちくるい)尚お恩を報ず人類争(いかで)か恩を知らざら ん。
【訳文】
今私たちが仏と出会い、その教えを聞くことができるのは、これまで仏の教えを伝 え続け、仏の道を歩んでこられた大勢の方々がいたからである。尊い恩恵を、私た ちは受けているのだ。 コップ一杯の水を別のコップに丸々移すようにして、こぼさ ずに受け継がれてきたからこそ、2500年も昔の教えが今もなお現代に残っているの である。 それほどに尊い仏法なのだから、一句でも、一語でも、その教えを学んだ際には感謝の心を起こさなくてはならない。真実を説く教えに出会えたなら、報恩の心で生きなければいけない。 雀や亀を助けたら恩返しを受けたという故事がある。動物であってもそのように恩を忘れずに生きている。人間が恩を忘れて生きるようなことがあってはならないだろう。
第二十九節
其(その)報謝は余外(よげ)の法は中(あた)るべからず、唯(ただ)当(ま さ)に日日(にちにち)の行持(ぎょうじ)、其(その)報謝の正道(しょうど う)なるべし、謂(いわ)ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私 に費やさざらんと行持するなり。
【訳文】
仏の恩に報いる生き方はいろいろあるが、恩を返そうと思うのではなく、自分もまた仏の道を歩むことこそが、もっともすぐれた報恩の行いである。仏の生き方に学び、仏の生き方にならって自分の人生を歩んでいけば、それこそが 恩に報いる正しい道となるのだ。 だから日々の生活を修行そのものととらえ、修行 を持続して日々をなおざりにしないように生きていきなさい。 くれぐれも、自分の欲にふりまわされ欲の奴隷のように生きることがないように。 特別な行いをする必要はないから、毎日を大切にして生きていきなさい。
第三十節
光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、身命(しんめい)は露よりも脆(もろ)し、何(いず)れの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか過ぎにし一日を復び環(かえ)し 得たる、徒(いたず)らに百歳生けらんは恨むべき日月(じつげつ)なり、悲むべ き形骸(けいがい)なり、設(たと)い百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢 (ぬび)と馳走(ちそう)すとも、其中(そのなか)一日の行持を行取(ぎょう しゅ)せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生(たしょう)をも度取す べきなり、此(この)一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、此(こ の)行持あらん身心(しんじん)自らも愛すべし、自らも敬うべし、我等が行持に 依りて諸仏の行持見成(ぎょうじげんじょう)し、諸仏の大道通達(だいどうつう だつ)するなり、然(しか)あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行 持なり。
【訳文】
時が経つのは射られた矢よりも早い。私たちの命は道端の草に宿った朝露よりも儚 い。どんなことをしても、一度過ぎ去った時間をもとに戻すことはできない。 だか ら、ただ空費するように歳月を生きるのでは虚しいだけで、正しく生きなければ悲 しい人生となってしまう。もし、これまでの多くの時間を無駄に過ごしてきてし まったと思うのなら、これからを改めればいい。人生のなかでたとえ1日でも仏の 心をおこし、仏の生き方ができたなら、無駄にしか思えない人生だったとしても、 これまで生きてきてよかったと思えるようになる。そしてこれからの人生を方向づける、尊い1日となる。この1日を生きた自分は、尊ぶべき存在である。
仏陀と同じように生きることができた自分の身と心を愛してあげなさい。自分自身を敬ってあげなさい。私たちが仏の道を歩めば、1人の仏がこの世界に姿を現わしたことになる。祖師たちが生きた証しが、自分を通して現代にあらわれるのである。仏の道を歩む1日を過ごせば、仏の種を蒔く1日となる。仏の生き方をすれば、その時、人は仏になっている。
第三十一節
謂(いわ)ゆる諸仏(しょぶつ)とは迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)なり、釈迦牟尼仏 是れ即心是仏(そくしんぜぶつ)なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る 時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏というは誰(たれ)というぞと審細(しんさい)に参究すべし、正(まさ)に仏恩を報ずるにてあらん。
【訳文】
仏というのは、つまり仏陀のことである。そして仏陀とは、仏の道を歩もうと する私たち人間のことである。仏の心でこの人生を生きたなら、人は仏としてこの 人生を生きているのだ。 いつの時代を生きる人であっても、仏の道を歩めば、必ず 仏陀としての人生を歩んでいることになる。仏陀がどこに存在しているか知っ ているか。1人ひとりの心のなかに存在しているのだ。それを「即心是仏」とい う。 この心こそが仏である、という意味だ。即心是仏とは誰なのか。仏とは誰なの か。自分とは誰なのか。この問いを生涯忘れてはいけない。このことをいつも考え ていなさい。この答えがわかったとき、真に仏の恩に報いる生き方ができるように なるだろう。