「行持」を学ぶ(6)
【仏の道:遠望・近見】 (165)
「行持」を学ぶ(6)
六祖は新州の樵夫なり、有識と称しがたし。
いとけなくして父を喪す、老母に養育せられて長ぜり。
中国の六祖、大鑑慧能禅師は、もと新州の樵であり、学識者とは言えない。彼は幼くして父を喪い、老母に養育されて成長した。
樵夫の業を養母の活計とす。
十字の街頭にして一句の聞経よりのち、
たちまちに老母をすてて大法をたづぬ。
そして樵の業で母を養い生計を立てた。ある日、街頭の十字路で経文の一句を聞いてから、にわかに老母を捨てて大法を探し求めた。
これ奇代の大器なり、抜群の辨道なり。
断臂たとひ容易なりともこの割愛は大難なるべし、
この棄恩はかろかるべからず。
この人は世にまれな大器であり、抜群の求道者である。慧可が法のために臂を断つことは、、たとえ容易であったとしても、この情愛を断ち切ることは大変困難です。この恩愛を棄てる行いは、決して軽いものではない。
黄梅の会に投じて、八箇月ねぶらずやすまず、
昼夜に米をつく。夜半に衣鉢を正伝す。
彼は、黄梅山 (大満弘忍禅師の)道場に入って、八か月 眠らず休まず昼夜に米をついた。そして、弘忍禅師から夜半に衣鉢を譲り受け、正法を受け継いだのである。
得法已後、なほ石臼をおひありきて、米をつくこと八年なり。
出世度人説法するにも、この石臼をさしおかず、希世の行持なり。
彼は大法を得た後も、なお石臼を背負って米をつくこと八年。世に出て人々に説法する時にも、この石臼を離さず、世にも希な修行をされた方であった。
【語義と解釈】
ここでは、「六祖・慧能」の行持が語られている。
慧能(エノウ・638年2月27日生~713年8月28日没)は、中国・河北省保定市涿州市)の出身。父が早くに亡くなり、薪を売って母親を養っていた。ある日、町で『金剛般若波羅蜜経』の読誦を聞いて出家を思い立ち、東山の五祖弘忍の下に参じたが、文字が読めないため、行者として寺の米つきに従事した。
その後、弘忍の法を受け継いで広州に帰り、兄弟子の印宗より具足戒を受けて正式な僧侶となり、曹渓宝林寺に移って布教を続け、兄弟子の神秀より朝廷に推挙されるも、病と称して断り、亡くなるまで布教を続けた。現在、慧能のものとされるミイラは広東省韶関市曲江区の南華寺に祀られている。
仏祖として最も多く語られる人だが、意外にも道元は実に簡単な紹介で終わっている。既に度々、法話の度に言及されていたのでそのような結果となったのかもしれない。が、禅を語る場合、常に言及される重要な方である。
◯ 黄梅の会:「黄梅」は五祖・弘忍(コウニン)のこと。
◯ 衣鉢:仏家において「法を嗣ぐ」ことを言う。
「正伝」とは、仏法に則り、正しく伝える行為を意味する。