10 戦争放棄を宣言:福祉国家建設へ

「大日本帝国」は、こうして昭和20(1945)年に壊滅しました。西欧諸国が植民地化したアジア諸国を解放し、天皇を盟主として戴く大東亜共栄圏を築くとの野望「八紘一宇」は潰えました。

 明治維新後の近代化「富国強兵」の伝統も全面否定されて、国民は、一億総懺悔。徹底的な自己否定の後、新しい「国のかたち」を模索しました。そして敗戦から2年目、昭和22(1947)年に新しい「日本国憲法」が制定・公布され、生まれ変わるべき新しい日本の「国のかたち」が示されました。

最も重要な柱の一つは第二章の「戦争の放棄」
◉ 第九条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
 (1) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
     国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、
     国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 (2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持
     しない。国の交戦権はこれを認めない。

もう一つの大黒柱は、第三章 国民の権利及び義務 
◉第25条【生存権、国の社会的使命】
 (1) すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を
     有する。
 (2) 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆
     衛生の向上及び増進に努めなければならない。


つまり、徹底的に過去を打ち壊し、更地になった国土に建設する新しい「国のかたち」は次のようなデザインでした。

 (1) 対外的には、軍備を持たず、国権の発動として(国際法上認めら
     れている)戦争、武力による威嚇、武力の行使を永久に放棄し、
     平和に徹する国。
 (2) 国家理念は、個々の国民に「健康で文化的な最低限度の生活を
     営む」基本的な生存の権利を保障する「福祉国家」

 終戦の翌年、私は、旧制の官立広島師範学校(現・広島大学教育学部)に進学しました。そこで必修とされたのが新しい「日本国憲法」の授業でした。が、最も奇異に感じたのが「福祉」と言う耳慣れない”新語”でした。何かバタくさい思いがしましたが、説明される言葉の内容も全くわからない。
 
この条文の意味を、本当に理解出来たのは昭和25(1950)年4月、同志社大学に進学して教養部必修の「憲法」講義を受講した時でした。この憲法が制定・公布されて3年目、私自身20歳になっていました。

当時の私は、15歳まで私を支配した「軍国少年」観念を未だ引きずり、戦後の虚脱感から抜けきらぬ状態のままでした。教師たちの暗中模索の”民主化実験教育”ほどシラケる者はありませんでした。昨日まで「鬼畜米英」と罵っていたその国々の有り様を手本とする宣伝者に転身した大人たちへの不信は強かったですね。

私が、この世にあるのは、お国のため・・・それが生まれて15年間の親・学校・社会が私に施した教育のすべてでした。滅私奉公。私を捨て、公に奉じる。”私”はただ国家・社会の為に役立つために、この世にあったのです。その観念が血肉にしみこんでいました。だが、それがすべて間違いだった! 

自らが信じていたものを全面的に否定され、さらにそれを信じたことの反省を強要する「一億総懺悔」 私たちは自虐感と虚脱感の入り混じった不安の中で迷っていました。そのような状態で、20歳の時、同志社大学に入学したのです。そして憲法の講義で学んだ次の条項は、衝撃的でした。

《すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。》
 国家のために滅私奉公、およそ自分の幸福など口にも出来なかった言葉が前面に押し出され、しかもそれが一番、大事だと言う。一人の命は地球より重い。その意味するところを田畑憲法講義はこのような表現で教えられました。

国家・社会に先んじて個々の生活者がある。その生活者は、何人も冒すことの出来ない人間としての不変の基本的権利、つまり、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利をもっている・・・・それは、”軍国少年”の良きこと、悪しきこと、の弁別だけに腐心し、「民主化」に適応することを模索していた私たちにとって一大文化大革命を促す言葉でした。

先ず、一人一人の生活者がある。その個人の基本的な権利の内容は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む」こと。新しい日本国憲法は、何よりも先ず、国民一人ひとりに生存権がある。その確認をした上で、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と、国家の義務を定めているのです。

基本的権利は国民一人一人にあり、その権利内容を担保する社会的義務が国家にある。なんと、なんと! 個人と国家の関係をこれほど明確に規定しているとは! 私たちが、それまで教えられた”天皇主権国家”とは真逆の考え方です。

 それは大きな感動でした。私が偏狭な”軍国少年”から自由人に脱皮できたのは、正に、この憲法条文に接してからだと思います。終戦から5年間。”軍国少年”の良きこと、悪しきこと、の弁別ばかりを論議していた妄想は一瞬に吹っ飛んだ思いがしました。

新憲法が指し示す民主主義に根ざした新しい「福祉国家」像。
 それは京都御所の北、大本山・相国寺の南門前町にあった田畑忍教授宅で行われていた私塾で講じられていました。数軒隣に下宿していた私は一番、若い”門下生”として講義を聞かせていただいておりました。先生の脇には常に新任の女性講師が控えておられました。後の土井たか子・衆院議長です。
 当時、日本の憲法学は、東の宮沢憲法(東大)と西の田畑憲法(同志社大)の二つの巨峰が聳え立っていました。田畑先生は自宅を開放して「戦争と平和の憲法学」を講じてくださったのです。

ともかく、私は、相国寺の南門前町の田畑教授宅の私塾で、抜け切れなかった”軍国少年”から完全に脱皮し、真に自我に目覚めました。昭和25(1950)年7月ごろのこと、20歳のときでした。

それから既に70年の歳月が流れました。現在、4、50歳代の中堅世代の人々が「今の憲法はアメリカ占領中、押し付けられ、それに忍従しなければならない時代に作られたものだ。我が国を取り巻く国際情勢は激変した。国を守るため憲法を改正し、自国を守る軍備を備えた普通の国家にしなければならない」と言う主張が声高に叫ばれるようになって来ました。

私は、このような憲法改正論者の主張を聞く度に反論します。
「そうじゃない、今ある「国のかたち」・・・平和に徹する福祉国家。これを生み出したのは、戦争に狩り出されて死んだ父、夫、いとし子、東京・大阪はじめ全国主要都市の無差別爆撃や広島・長崎への原爆投下で虐殺された無数の非戦闘員の犠牲者。戦争が終わった時、生き残った者すべてが「生きてある」ことの慙愧(ざんき)の念を覚え、心に大きな負い目を負ったものなんだ。そして誓った。

「どうぞ安らかに眠ってください。過ちは再び繰り返しませんから・・」
 広島原爆記念碑に刻み込んだこの決意。これこそ、私たちの世代が築き上げた今の「国のかたち」の原点。私の体験が熱っぽくそれを主張させます。私は、何よりも先ず、我が子・孫・ひ孫たちに訴えたい。そして若い世代の人々にも知って欲しい。

 敗戦で日本が得た唯一の財産は「日本国憲法」です。戦後の日本を今の「福祉・文化国家」にしたその礎です。これがあったからこそ、あの壊滅から立ち上がって世界に冠たる見事な福祉国家を創造した・・・もう20数年も前の話になりますが、オランダで開かれたハーグ平和市民会議は、全会一致して日本国憲法第9条を称えました。

 国の形、国家理念を法律で定めることは非常に大切です。民主主義制度の下では政治家や行政担当者は強大な権力を手にします。ちょっと油断すると、邪念や独裁指向に動きがちです。それを監視・制御できるのは「憲法」です。

戦前の「大日本帝国憲法」は、天皇陛下を「神聖にして犯すべからず」と規定しました。邪な政治勢力が権力を握り、この規定をフルに活用し、天皇自身をも操った事実とその被害を私たち昭和ヒトケタ族は身を持って体験しました。

それは、これまで、私たち夫婦の体験談や畏友・竹本成徳氏の証言でご披露した通りです。そしてまた、戦後の「日本国憲法」の「国民主権」の原理とその国民の「生存権」(第25条)規定が世界に冠たる現在の福祉国家を誕生させ、それを享受している実感を私たちだけでなく、皆さん全てが知っています。

大切に守りましょう。この世界に誇るべき日本国憲法を。私たち自身の生活安定のためだけでなく、愛しい子・孫たちを絶対に戦場に送り出すことのないよう確たる保証を与えるために・・・

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