「八大人覚」(9)

【仏の道:遠望・近見】 (90)
「八大人覚」(9) 

【釈尊最後の教え】

    これ八大人覚なり。一一各具八、
    すなはち六十四あるべし。
    ひろくするときは無量なるべし、
    略すれば六十四なり。
 

これが八つの大人覚である。この一つ一つがまた、すべてこの八つの法を具えている ので、この法はつまり六十四である。 更にこれを広く説けば無数になるが、略すれば六十四である。 

    大師釈尊、最後の説は、
    大乗の教誨する所、
    二月十五日夜半の極唱なり。
    これよりのち、さらに説法しましまさず。
    つひに般涅槃しまします。
 

この大師釈尊の最後の教えは大乗の教えで、二月十五日夜半の究極の説法で す。これ以後は、まったく説法なさらず、ついに入滅された。 

    仏の言はく、
    「汝等比丘、常に当に一心に
    勤めて出道を求むべし。
     一切世間の動不動の法は、
    皆な是れ敗懐不安の相なり。
    汝等 且らく止みね、
    復た語こと得ること勿れ。
    時 将に過ぎなんと欲す、
    我れ滅度せんと欲す。
    是れ我が最後の教 誨する所なり。」
 

仏(釈尊)は仰せられた。
「比丘(僧)たちよ、常に 一心に力を尽くして、六道(迷いの世界)から抜け出 ようと求めよ。 すべて世間に存在する動くもの、動かざるものは、皆壊れるもの、不安定なもので ある。汝らは暫くの間 静かに沈黙せよ。また話をしてはならない。 今最後の時が到らんとしている。私は今、煩悩を滅ぼした涅槃に入るであろう。 これが私の最後の教えである。」と。 

    このゆゑに、如来の弟子は、
    かならずこれを習学したてまつる。
     これを修学せず、しらざらんは、
    仏弟子にあらず。
    これ如来の正法眼蔵涅槃妙心なり。
     しかあるに、いましらざるものはおほく、
    見聞せることあるものはすくな きは、
    魔嬈によりてしらざるなり。
 

このことの故に、仏弟子は必ずこの教えを習学し奉るのである。 であるから、これを学ばず、これを知らない者は、仏弟子ではない。 これこそ釈尊の正法眼蔵であり涅槃妙心(煩悩を滅ぼす悟りの智慧)である。 それなのに、今でも知らない者が多く、見聞きしたことのある者が少ない。それは、修 行者の心が悪魔のために乱されているからである。 

    また宿殖善根のすくなきもの、きかず、みず。
     むかし正法、像法のあひだは、
    仏弟子みなこれをしれり、修 習し参学しき。
     いまは千比丘のなかに、
    一両箇の八大人覚しれるものなし。
 

また過去世の善根の少ない者は、この教えを聞くことも見ることもなかろう。 昔、正法の修行が行われていた時代や、正法に似た修行が行われていた時代には、 仏弟子は皆これを知っていて修行し学んだ。 しかし今では、千人の比丘の中でも、ただ一人二人でもあるだろうか? 八大人覚を知っている者は あろうか。 それも疑わしい。

    あはれむべし、澆季の陵夷、
    たとふるにものなし。
    如来の正法いま大千に流布して、
    白法いまだ滅せざらんとき、
    い そぎ習学すべきなり。
    簡単なることなかれ。 

悲しいことである。末世の仏法衰退は喩えようもない。釈尊の正法は、今 全世界に行き渡っており、この正法がまだ滅した訳ではない。今こそ急ぎ習学すべきである。怠ってはならぬ。 

    仏法にあひたてまつること、無量劫にかたし。
    人身をうるこ と、またかたし。
    たとひ人身をうくるといへども、
    三洲の人身よし。
    そのなかに南洲の人身すぐれたり。
     見仏聞法、出家得道するゆゑなり。
 

仏法に巡り会うことは、いつの時代にあっても難しいものだ。たとえ人身を得ても東方 西方 北方の三世界の人間に生まれれば幸いだ。その中でも南方世界に生まれた人間はさらに僥倖である。 何故ならば、仏を見聞し、法を聞くことができ、出家して悟ることが出来るからである。 

    如来の般涅槃よりさきに涅槃にいり、
    さきだちて死せるともがらは、
    この八大人覚 をきかず、ならはず。
     いまわれら見聞したてまつり、
    習学したてまつる、
    宿殖善根のちからなり。
    いま習学して生生に増長し、
    かならず無上菩提にいた り、
    衆生のためにこれをとかんこと、
    釈迦牟尼仏にひとしくして
    ことなることなからん。 

だが釈尊の入滅より先だって死んだ仲間は、この八大人覚を聞くことも、習うこともかなわなかった。 それなのに今、我々は、この教えを見聞きし、学習できる。これひとえに過去世の善根力のお陰なので ある。 今学習して、生まれ変わるたびにその功徳を増長し、必ず無上の悟りに 至り、衆生のためにこの教えを説くこと、釈尊のようにあらねばならぬ。

    正法眼蔵 八大人覚
    建長五年正月六日、永平寺にありて書す。

    【語義註解】
    道元禅師は、この後、ガンが悪化し、同年八月二十八日、
    京都でご逝去。享年54(満53歳没)

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