感情は、僕が感じられる分だけぶつかってみればいい。📚『アーモンド』
おはようございます。こんにちは、こんばんは。Kianaです。
今日の本は、ソン・ウォンピョンの『アーモンド』。
表紙に描かれた主人公のユンジェの絵が強烈なインパクトがあって、
わたしはちょっとカバーから目を背けて読了したのが正直なところ。
モナリザみたいな西洋の肖像画に見つめられるのが怖いのと同じ感覚。笑
わかってくれる人がいたら嬉しいな…笑
表紙はさておき、人生で読んだエッセイの中で好きなもの5つには入りそう。
陳腐な感想だけれど、翻訳版とは思えないくらい日本語でしっくりくるというか、美しく繊細な表現に溢れた物語だった。
脳のある部分の特殊な発達によって「感情を持たない」主人公ユンジェ。
彼が見たままを表現したからなのかな。
でも、もしわたしが見たままの場面を感情抜きで説明しようと思っても、こんなに解像度高く、そしてなんだかすべてをセピア色に見せるような言葉選びはできない気がする。
文章を書くことで生きていきたいとなんとなく思っている身としては、いつか真似できるようになりたい技。
そもそも見たままを巧みに描いている時点で、ユンジェは「感じている」といのではないかと思ったりしていた。
見たままを描くのに、個人の視点が入り、個人の感じたことが入るとわたしは思うから。
さておき。
わたしのお気に入りは、ゴニという、ユンジェの良き友となる非行少年。
彼は、とても悲しく数奇な幼少期を過ごして非行少年となり、ユンジェの前にある日現れるのだが、
なんとまあこの非行少年は、とてつもなく感情が豊かなのだ。
よく笑い、よく興奮し、よく怒り、よく泣く。
ユンジェには、ゴニが自分に向けてやっていることの意味を理解できない。
「君が望んでいることを僕はしてやることができないんだ」これが決め台詞。
笑わない、興奮しない、怒らない、泣かない、
感情のないロボットのような怪物ユンジェと、
豊かな感情に任せて暴れても悪くなりきれない怪物ゴニ。
この対照的な二人の怪物が交わっていくさまが、わたしにはセピア色に見えた。
なぜセピア色に見えるか。
ユンジェの未来の視点から語られる物語であるのと、わたしが彼らより年上で、自分の思春期を重ねているからだろうか。
重ねるにしては、彼らの物語はあまりにも残酷だけれども。
あなたの目には、彼らの日々は何色に見えるでしょうか。
この物語は、ずっとユンジェの視点で進むのだが、わたしはいつもゴニの視点にいた気がする。
どうしたらユンジェの心を動かせるだろう?
どうしたら本当に友達になれるだろう?
彼の疑問が手に取るように見えた。
彼の豊かすぎる感情任せに動くシーンも、なんとなく共感できた。
泣きながら、ちょっと怒りながら本気で説得しようとしてしまうタイプ。
だから、ゴニがユンジェに
「何も感じないってどんな感じ?」
「俺も感じられなければいいのに…」としつこいほどユンジェに言ってくるのも理解できる。
わたしももう少しユンジェみたいになれたら、
嫌なことは流してうつ病になんてならなかっただろうか…?
でもユンジェは、遠くの不幸は自分に無関係とは言わない。
わたしも、他の人の身に起こった性暴力を他人事とは思わない。
そこだけはユンジェと一緒、かもしれない。
本物の共感ってなんだろうね。
感情って、
ゴニみたいに、豊かすぎたらいちいち溢れちゃって厄介だし
ユンジェみたいに、なければないで理解できないことが多くてそれも辛いね。
感じられた分だけ、ぶつかってみるしかないのかな。片っ端から。
そうして日々は、人生は流れていくのかな。
19歳のユンジェとゴニに教えられたこと。
もっと電車乗って人間つれづれ書きます🚃