究極のネガティブシンキング
高校生から大学生にかけて、私は世間一般で言う多感な時期だった。
それまでまるで動いていなかった脳みそが、意識を変え、思考を始め、今こうして綴っている価値観や考え方を形成していこうと言う動きをし始めたのもこの時期である。
この7年間において今以上に未熟だった先の3,4年は、ようやく自分を客観視できるように意識をし始めた段階で、まだまだ自分自身を顧みることはできていなかった。
そして客観視できるようになってきたのが、大学生になって少し経った頃である。
その時に初めて、過去も含め自分はネガティブな人間だったのだと認識した。
その認識が完成した時、やはり過去含めこれまでの自分の経験とその都度の心の動きを解釈しようとした。
行動から遡るように、どういう意図で、どういう感情で、どう言う価値観で、というように考察した。
過去の自分を顧みたその次にすることは、未来へ生かすための反省である。
自分の価値観、感情、意図、行動から生み出された過去の結果はよくないものであった。
ならば、そのネガティブな自分を肯定し、そのままで居続けることを自分はよしとするだろうか。
否、できるはずがない。
ネガティブな自分は嫌だ。
人の発言一つに感情を左右されたり、出来事一つに行動を制限されたくない。
ポジティブになりたい。
ただ、そんな簡単にはなれない。
そこで私が出した結論、というか気づけば習慣化していたこと。
それが、「最悪な事態を想定する」というものだ。
どこがポジティブなのかと言う話だ。
ネガティブの権化である。
ポジティブになりたいと思ったが、それまでネガティブだった私は卑屈すぎて、ポジティブにはなれなかった。
ならばネガティブなりのマインドセットをするしかない。
例えば事象が起こる前に、何が起こると自分自身が精神衛生上最悪の状態になるかを想定する。
そうすることで、実際にその何かが起こってしまった時に、結果として精神を保つための準備ができるという仕組みである。
究極のネガティブ、究極の猜疑心。
ぶっちゃけた話、私は軽い人間不信だとすら思う。
ポジティブにはなれなかった。
ネガティブでい続けるしかなかった。
それでも同じ場所に踏み止まって、周りの目を気にして、前に進めない人間で終わるのが嫌だった。
ネガティブを突き詰めた結果、最悪に対する最大の想像力を生かして、自分が与えられる傷を最小限に抑えることを覚えたのである。
ただこの思考プロセスは先述の通り人間不信をもたらす。
というか、ありとあらゆる人間に対する疑念を根底に据えないと成立しないのである。
なので結論、お勧めはしない。
ただし、何事においても自分の理想を実現するために、不可能だと感じた道とは別のアプローチを組み立てて行動に移すという発想は捨てがたいものだと思う。