天啓
大切な言葉はいつも、ある日突然現れる。
たまたま手に取った本だったり、流していただけのテレビ番組だったり、普段は話さない人との会話だったり。
不定期に通っているヨガのクラスがあって、更衣室でよく一緒になる五十代か六十代の女性と、当たり障りのない世間話をするようになった。
背筋が伸びた上品なその方は、英語の先生をしていたということで、ある時、レッスンの後に、学校の話になった。女子校なんですよと行ったら、あら中学受験したのねと言われて、いや小学校から入れられましたと答えたら、お嬢様なのねと言われたから、ついポロッと言ってしまった。
「親の見栄で行かされた、大嫌いな学校なんです」と。ヘラヘラと自虐的に口にしただけなのに、その方は、急に真面目な顔になって言ってくれた。
「わかるわよ、私もだったの」と。結婚するまで、過干渉な母親の元で、苦しい思いをしていたと。旦那さんと義実家とご自身の子育てを通して、少しずつ自由になれたとのことで、年代もそれまでの距離感も越えて、思わず「同じですね」と呟いてしまった。
そして、冒頭の話に戻る。
そのご婦人は、こう言ったのだ。
「でも、母が亡くなるまで、なんとなく苦しくてね。早くいなくなってくれないかと思ってたのよ」と。
嫌うだけでなく、そこまで言っていいのだなと、私は衝撃を受けた。
その方は、私みたいにヘラヘラもせず、天気とかヨガの話をする時みたいに、真顔で力まずそう言った。
うん、でも、そうだよな。いなくなってほしいと思っていいんだ。
去年の末に親兄弟に絶縁状を出すに至るまで、当然ながら長い葛藤があった。
でも、ヨガのご婦人のこの台詞だったり、友人の体験だったり、本の一文であったり、数多くの言葉が重なって、私は絶縁という結論に至れた。
無宗教だし、運命論者じゃないけど、絶縁しなかったら、もっと苦しい思いをしていたと思う。