「おもしろいやつ」には‘’意見‘’がある

「おもしろいやつ」には‘’意見‘’がある

最近、NONSTYLEの石田明さんの著書『答え合わせ』を読みました!
石田さんといえば、2008年のM-1の優勝者であり、お笑いオタクでもある方です。僕自身、幼少期からテレビで「M-1」を見て育った関西人ですから、石田さんの「漫才」についての考察に興味が湧いて、気づいたら一気読みしてしまいました。

本の内容としては、「漫才とは何か」という基本原理や、漫才が多様化してきた近年の流れ、自分の声質などの「自分の特性を知ること」など、さまざまな角度で現代の漫才を分析していました。何より、漫才に対するリスペクトが伝わる本でした。
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私自身、人生のモットーとして「毎日、げらげら笑う」を一つ掲げていまして、毎日、腹を抱えて笑える日々を送れたらと思っています。そのためには、何が必要か、こちらの本からヒントがあったように思います。

こちらの本では「おもろいやつには意見がある」という章があります。そこが興味深かったです。石田さんは昔、僕はなぜ、こんなにもつまらないのか思い悩んだ時期があったそうです。そして、1つの答えに行き着いたそうです。以下、一部引用します。

『僕には「意見」がないんや──。 「意見」があるやつは、なんか尖ってる。なんか面白い。そう気づいて以来、目にするものすべてに「意見」を持とうと努めてきました。p129』

ここでは、「意見」をもつ重要性が語られています。また、どのように練習したのかも書かれています。

『「たまに見かける、親子丼に乗ってる卵の黄身、ほんまに必要か? 偉そうに真ん中に鎮座してるけど、その下の卵と鶏肉だけでもう完成してるやん。いらんやろ」p129』

という具合に、日常の一場面をどう考えるのか自問自答したそうです。そして、意見を持つようにしていく中で、漫才師としての力もついてきたそうです。しかしながら、なぜ意見をもつことが重要なのかは書かれていませんでした。ただ、他の章と結びつけながら、キタバなりにの解釈してみます。

『1章「漫才か、漫才じゃないか」への回答』では、漫才の(原点的な)基本は「偶然の立ち話」と石田さんは表現しています。たまたま出会った2人が話し始める。そこで、一人が変なことを言い(ボケ)、もう一人が「なんでやねん!」とツッコム(常識人)。この二人の掛け合いが繰り返されることが、漫才の基本と。

つまり、漫才の面白さとは「偶然出会った二人が立ち話をしている」という「自然さ」にあるんだと石田さんは考えています。意図的に作り込まれた感ではなく、本当にその場で会話が始まったような自然な流れを作るのが、漫才の(原点的な)基本だと語られていました。

ここで「(日常に)意見をもつこと」と「偶然の立ち話(漫才の基本)」を掛け合わせて考えると、偶然の立ち話を面白くするためには、日常的な場面にフォーカスを当て、それに自分の意見を加えるは、欠かせない要素に思います。

例えば、意見をもつ練習として、親子丼の事例を紹介しました。そこでは、親子丼とは何か?黄身は本当に必要なのか?という「常識を疑う視点」や、黄身を主語にして物語のように切り取る力など、自分の意見を持つ過程で、様々な観点を考える必要があり、複雑な作業に思います。その思考のトレーニングが、漫才師としての力にもつながったのではないかと考えています。

何かの事実や情報に対して、
①そのまま受け取る
②「意見」を持てるように、情報を加工する

普段、どのように情報を処理しているかによって、「偶然の立ち話」の質も変わるように思います。普段から②まで、情報を整理するトレーニングをしている方は、少数だと感じます。そのため、「意見があるやつは、なんか尖っている。なんか面白い」と石田さんは記述しているように思います。

さて、「毎日、げらげら笑う」ことを大切にしながら、人生や普段の学童の活動を過ごしていきたいと思います。普段から、日常のささいなことに「私はどう思う?」「あなたはどう思う?」と問うてみたら、ありふれた日常が、「げらげら、わはは」と特別な時間に変わるのかもしれません。

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