対話とは、「言葉」への応答ではなく、「存在」への応答ではないか?

対話とは、「言葉」への応答ではなく、「存在」への応答ではないか?

私は、「ケアの溢れる地域社会とは何か?」を探究テーマにしている中で、最近ぴったりの本に出会った。

森川すいめいさんの「その島のひとたちは、ひとの話をきかないーー精神科医、「自殺希少地域」を行く」である。この本は、日本の「自殺希少地域」(自殺で亡くなるひとが少ない地域)を巡って、それぞれ約1週間前後宿泊したときの記録であり、生きやすさのヒントは何かの探究の記録である。

特に興味深いエピソードがあった。旅先で森川さんが歯の痛みに悩まされ、旅を断念しようかと考えていた時のことだ。その話を聞いた宿のおやじさんは、隣町の歯医者を起こしに行こうと提案したり、82キロ先の歯医者まで車で送ると申し出たりする。森川さんが「いや、そこまでは大丈夫です」と断っても、おやじさんは話を続けていた。このエピソードに、本書の題名にもある「ひとの話をきかない」という興味深い現象が表れている。

ただ、この「きかない」姿勢の中に、実は「よくきいている」という面も個人的に感じる。では、おやじさんは何をきいているのだろうか。

さらに続きには、こう書かれている。

「今振り返ると、おやじさんは私と対話をしてくれていた。この対話力は自殺希少地域の特徴だとあとでわかることになる。私の困りごとを聞き、私の存在を見ながら感じてくれて、感じたことをまた私に話してくれて、決して説得しようとはしなかった。」

ここでは「存在」という言葉が使われている。おやじさんがきいていたのは、言葉ではなく「存在」そのものだったのではないか。おやじさんは、森川さんという「存在」に応答する形で、対話をしていたのだと感じる。

仮説として、『対話とは、「言葉」への応答ではなく、「存在」への応答なのではないか?』が浮かぶ。「存在をきくために、言葉はあくまで参考にする」という位置関係がそこにはあるように思える。

「ケアの溢れる地域社会とは何か?」という探究テーマを考える上で、「存在への応答としての対話」は無視できない要素だと感じた。人の存在に耳を傾け、相手の気持ちやニーズを感じ取り、それに応えること自体が、ケアの形なのではないか。この「存在への応答」という対話の形が、どのように人の安心や生きやすさにつながるのかを探ることも重要に思う。

こうして、次なる探究として「対話とケアの関係性」や「対話は、ケアなのか?」といった問いが浮かび上がってきた。これらの問いを通じて、「ケアの溢れる地域社会」の探究の道を、散歩していきたい。

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