対話はケアなのか?
「対話は、ケアなのか?」という問いを、前回の記事で、未来に投げてみました。
この問いについて、今回はもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。現時点での仮説として、「対話は、ケアの入り口」ではないかと考えています。
近内悠太さんの『利他・ケア・傷の倫理学』では、ゲームの「バフ」と「デバフ」という概念を用いて、ケアについて考察されています。ここでバフとは、相手を助けたり力を与える行為を指し、デバフとはその逆に、相手を弱めたり害する行為を指します。
例えば、サッカーの試合では観客の「声援」は選手の士気を上げる(バフ)作用を持ちますが、「野次」は逆に士気を下げる(デバフ)作用を持つという例が挙げられています。
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ーーケアの「やさしさ授受問題」とは?ーー
ケアにおいては、良かれと思って行った行為が、相手にとっては好ましくないどころか傷つけてしまうことがあります。これが「やさしさ授受問題」と近内さんは言います。
ゲーム内では「回復の魔法」を唱えたのに「攻撃してしまう」という現象は起こり得ません。しかし、現実ではこれがしばしば起こります。この違いについて、近内さんは次のように述べています。
『もし、味方プレーヤーに差し出したバフが相手にとってはデバフになるという「バフ/デバフの反転」が起こるのならば、それは、同じゲームを営んでいない、ということになる。(p93)』
つまり、自分と相手が異なる価値観や前提で生きている(別のゲームをしている)ため、善意がすれ違ってしまうのです。
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ーー対話を通じた自己理解と他者理解ーー
ケアが成り立つためには、まず「自分がどのようなゲームを営んでいるのか(自己理解)」と「相手がどのようなゲームを営んでいるのか(他者理解)」を把握する必要があります。
苫野一徳さんの『はじめての哲学的思考』に登場する「価値観・感受性の交換対話」では、この対話の意義を三つにまとめています。今回はそのうち二つを紹介します。
自己了解:自分自身をより深く知ること
他者了解:相手を深く知ること。お互いに「他者尊重」の土台を築くこと
対話を通じて、自己理解と他者理解を深め、「お互いのゲームを理解する」状態が生まれます。この状態になることで初めて、バフがバフとして機能し、ケアが成立するのではないでしょうか。
もし、良かれと思って為したことが、相手を傷つけてしまった際、一度、対話に立ち返り、踏みとどまることが必要なのかもしれません。
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ーーまとめ・今後の考察ーー
対話は、ケアが成立するための重要な入り口です。自己理解と他者理解を深め、共通の地平に立つことができたとき、初めてケアが機能し始めるのではないでしょうか。
今後は、対話そのものが持つケアの性質について、さらに考察を進めたいと思います。ケアは「相手に関心を向けること」と言われることがありますが、これは対話にも非常に当てはまる行為です。今後は、対話が持つケアとしての性質についても探っていきたいと思います。