「あるがまま」の解像度をあげてみるⅱ(いのちの根源の在処)
いつだって、降りてくるのは突然です。
探求し続けている「あるがまま」の解像度があがる(次元)の感覚が、2025年1月1日の夜中に降りてきたので、綴っていきます。
5,000字程と、ちょっぴり長いのですが
(あるがままってなんだろう?)
と感じている人にぜひ読んでみてほしいです。
(そして、できることなら、(あるがまま)について語り合いたい。。。)
序章:手放す
2024年12月31日の大晦日、イヤーコンパスを使って、2024年の総振り返りをしている中で、「手放すもの」という項目がありました。
12.28にLMUとして、初めて実施したワークショップ(以下WS)でも、「手放す」というキーワードが出てきていて、ご参加くださった皆さんからも「手放したから、新たに受け取ったものがありました」というコメントを多くいただきました。(12.28WSのことは、アーカイブ含めて、別noteに綴ります)
WS内でも、ジャーナリングをしながら、皆さんと共に在り、「手放す」と向き合っていましたが、おそらく参加した誰よりもわたしは手放せていなかったのではないかと感じています。
大切なものばかりだから、と大事にとっておこうとしていた気がします。
けれども、「手放す」必要性には駆られていて、イヤーコンパスでの振り返りで、ようやく「手放す」必要があるものが見えてきました。
わたしが2024年「手放す」と決めたもの、
それは「すべてうまくやろうとするエゴ(自我)」。
メンタルダウンして、(できない自分)とこれでもか、というほど向き合ってきたのに、まだこの後に及んで(全部できる自分)でありたいと願っていることを思い知りました。
「過去-許す」パートに以下のように綴っているが、完全体ではありません。
完全体ではないことは、綴っていた私も自覚していたようで、以下の言葉が続きます。
1章:降りてきたもの
まだ、手放し切れてはいないというのが正直なところなのですが、それでも本当に「手放す」べきものが見えてきた先で、新しいもの(少しずつ積み重ねてきた感じ)が降りてきた感じ。
こちらが降りてきたイメージ図です。
冒頭にも書いたのですが、降りてくるのは、突然で、真夜中であることが多いです。
そして、降りてきた衝動で、こうして止まっていたnoteさえも動き出せてしまうほど。
この降りてくる感覚についても深堀したら面白そうですが、本題に戻ります。
この「図1:いのちの根源の在処」は、完全な感覚値のため、何の文献にも紐づいていないことはお伝えしておきます。(ただ、(あるがまま)という文脈でいろんな文献を漁っているので、多かれ少なかれいろんな叡智から影響を受けているはずです)
私が、ずっと探求したかったのは、「あるがまま」がどの次元の話なのか、という問いでした。
これまで、感覚値でしか伝えられなかった「あるがまま」の存在する次元をこの図によって、少しわかっていただけるような感じがしています。
私にとって「あるがまま」である次元は、図1内の「いのちの根源」の部分。
心の先の魂の先にある源であり、「いのちの願い」、「いのちがありたがっている形」は、ここに辿り着かないと触れられないと感じます。
そう簡単には、ここに辿り着けないというのが、イメージいただけるのではないでしょうか。
私自身も「あれ、あるがままって何だっけ?」「え、まさかこれはあるがままではないと思うけど、本当に求めちゃってることなんだよなあ…」となる瞬間が多くあります。
そして、それらのケースで共通するのは【赤子のような素直な欲求が生まれてくる瞬間】です。
例えば、こんな場面。
◆ケース1:仕事があまりにもしんどい
一次思考/心の声:
(仕事つらすぎて、もう逃げたい)
(私の能力で、できっこない)
(全て投げ出してしまいたい)
二次思考/心の声:
…これって、心の奥底から聞こえてくる気がするんだけど、これがあるがまま?いのちが、仕事辞めたいって言ってる??
◆ケース2:眠くてやる気が起きない
一次思考/心の声:
(もう眠い、何も考えられない)
(起きてもやる気が出ない、何もしたくない)
(気力がない、起き上がれる気もしない)
二次思考/心の声:
…これって、身体が奥底から休息を求めてるってこと?何だか心もしんどい感じがするし、今日はサボれって、魂が言ってくれてる??これがあるがまま?私のあるがままって弱弱すぎない??(泣)
このケースは、両方とも私のあるあるケース笑
ただ単に、純粋な「本当はこうしたい!」が出てきた時に、私は「あれ、純粋な欲求だ、これってあるがまま??」と勘違いしやすいと思います。
「勘違い」と表現していることから、すでにお分かりかと思いますが、上記2ケースは「あるがまま」ではないと断言します。
2章:「あるがまま」の次元
なぜ、これらは「あるがまま」ではないのでしょうか。
この図の中で、キーワードだと感じているのが「言語」です。
これは、あくまで個人的な感覚ですが「思考(thoght・mind)」の部分のみが「言語」を司っており、それ以外の「身体、心、魂、いのちの根源」は、「非言語」を司っていると感じます。
この感覚に、正解や不正解はないように思うので、あくまでも個人的な見解としてお伝えしてみると、言語を司っているのは「思考(thoght・mind)」のみで、脳という臓器が、非言語を司る「身体、心、魂、いのちの根源」の声(非言語)を何とか頑張って翻訳しているように感じるんです。
「いやいや、脳だって「身体」の一部でしょ?」
「切り分けて考えるのはどうなんでしょう?」という声も聴こえてきます。(わたしの中からも)
ただ、状況次第でこの図で表したような線引きで乖離してゆくケースが多々あると感じるので、わかりやすいように切り分けて記載しています。ただ、大前提として、すべての要素が相まって、「自己」という存在を創り上げていて、すべての要素が分断されることなく一体として「いのち」で在る、ということは感じています。
うまいこと例としてお伝えできるかわかりません&医学的な知識はない前提で以下の例を挙げてみます。
例:身体(=手)に熱いお湯がかかった
⇨手の皮膚が熱いお湯がかかったことを感じ取り、脳に伝達
⇨脳が言語に状況を翻訳
「熱い、痛い、手に水をかけろ!」
…身体(=手)は、言語では反応していない、非言語で「熱い」感覚を受け取って、「痛み」を感じ反射的に危機回避の行動をしているが、脳に到達するまでは、言語では表現できない(言語にしなくても、危機回避できる)
例:至福の演奏を聴いて、魂レベルで幸せを感じた
⇨演奏が五感全てから入ってきて、自分自身の身体や心に影響を与える
⇨演奏から受け取ったものが自分の内側奥深くまで染み渡っていく感覚
⇨魂が揺り動かされ、言葉にできないものが込み上げてくる、涙まで出てくる
⇨どうにか、この感じを言葉にしようとしたら、脳(思考(thoght・mind))は「幸せ」と表現した
…魂にまで届くような体験は「言葉にできない」と皆さん言います。(私も近しい経験が多くあります)
非言語を司る部分で深く感じ入った時、人は「言葉にできない」と表現してしまうように思う。だからこそ、脳(思考(thoght・mind))が変換した言語の合致感が薄い、という経験をされた方、「私のボキャブラリーでは表現できない…」とモヤモヤされた経験がある方は少なくないのではないでしょうか?
もう少し踏み込んで考えてみます。
生まれたての赤ちゃんは、あるがまま、純粋な存在。いのちの根源、いのちがありたがっている形を知っていて、魂が生きたいと叫んでいて、生きるために必要な行動はなりふり構わずできます。(うちの娘がなりふり構わず、本気でいつも生きているように)
しかしながら、赤ちゃんが成長していく過程で、どんどんあるがままな純粋さが失われていくように感じたことはないでしょうか?
・純粋な自己として何がしたいかわからなくなる
・本当はこうしたいのに、できない
・普通は、みんなは、世間は、という囚われから抜けられない
・前提条件が多すぎて、何もできない
私自身は、いろんなしがらみの中で、純粋なあるがままの要素をどんどん失いながら生きてきたなあという感覚がありました。(高校までの学生時代や社会人になってから加速してきた感覚)
ここでは詳細を避けますが、社会で求められるのは純粋な自己ではなく、社会に適応できるペルソナや自我(エゴ)のほうで、社会に馴染もうとすればするほど、適応できてしまえばしまうほど、(純粋な自己=あるがまま)との距離が広がってゆくと感じます。
生まれた瞬間には、みんなそれぞれに持っていたはずのもの(純粋なあるがままの自己)を失ってゆく、
それはなぜでしょうか。
私は、この理由が全て「言語の獲得=思考(thoght・mind)の発達」にあると現時点では考えました。
「言語」を獲得したことで、純粋なあるがままの要素を薄めるきっかけとなっているような気がしてならないのです。
人として、生きていく上で最も大切な「コミュニケーション」のためのツールとしての「言語」。
なくてはならない、本当に大切なものであるというのは大前提にありつつも、この言語を司る「思考(thoght・mind)」が一人歩きをして、非言語の
「身体、心、魂、いのちの根源」の声に耳を傾けなくなった結果、「あるがまま」の自分自身と、遠くかけ離れた存在になってしまい、生きづらさを抱えたまま生きることしかできなくなってしまう、のではないかと感じています。
皆さんももしかすると、同じような経験をされているかと思いますが、私たちの頭の中には「ノンストップシンキング(以下、NST)」が、常時うるさいラジオのように流れ続けています。
そして、そのラジオは自分が最もわかりやすい言語で全て構築されていて、聞き流すことができません。
このNSTを沈め、聖なる沈黙を用意した上で、「非言語」に耳を傾けられるようになるために、瞑想が数千年もの間、より良く生きるための智慧として、語り継がれてきているのではないでしょうか。
終章:「あるがまま」の現在地
最後に、今の私がたどり着いた「あるがまま」をまとめてみます。
この「あるがまま」の次元を私の中で再定義することができ、年明け早々とても晴れやかな心持でいる。
言語にできない感覚の部分で「瞑想」の重要性を感じていましたが、改めて、「なぜ瞑想が必要か」という問いにも答えることができた気がしています。
これからも、「あるがまま」と共に在りながら、まずは私自身が「あるがまま」を受け入れ、そして、受け入れられた先で、【誰もが、あるがまま輝き生きる場を創る】ことをやっていきたいです。
2025年、大切な私にとって、大切なあなたにとって、
幸せで満ち足りた日々が過ごせますように、心から願っています。
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