認知症の義母が、自分の意志で通院できた!その理由は…
聞いてください…!
認知症の義母(90歳)が…
アルツハイマーで5分前の記憶がない義母が…
ずっと通院拒否し続けていたのに、
実に半年ぶりに、自分の意志で決めて、
病院を受診できたんです!!!
どうしてそれが可能になったのか、
記録を残します。
何がしかの参考になれば幸いです!
92歳・90歳がわめき合う、老々介護の現実
12月20日の午後、原稿作業中。
二世帯住宅の1階から ”ドンッッ!!”という、
重く鈍い大きな音が。
2階まで聴こえるってタダごとじゃない。
まさかDV⁈
慌てて階段を駆け下りると、
居間で立ち尽くす難病の義父(92歳)。
「どしたんですか⁈ 物凄い音しましたけど」
「なんでもないよ、いつものことだよ。
あれほど前から病院に行くって話してたのに、
やっぱり行かないって」
いや何でもない訳なかろう、と思った途端、
義母がトイレからパジャマのズボンを
引っ張り上げながら現れて大声で訴える。
「だって、そんな、勝手に決めて!」
「勝手に決めてないだろ!どれだけこっちが
準備してると思ってんだ!タクシーだって
頼んであるのに。昨日も今朝も言っただろ!」
「知らないわよ、ひどい!こっちだって
具合が悪いのに!」
「まあまあまあ、」
間に入ってなだめようとするが、後は
お互いの喚き声で、何を言ってるかも
不明な状態に。
わ~、阿鼻叫喚や。
憤慨して椅子にドスンと座った
義父の背中に手を添えて、
「お義父さん、覚えてないのは病気ですから、
そういう病気ですから、病気のせいですから」
と伝えるが、
「そんなの違うよ!バカになってんだよ!」
脳科学とか詳しいハズなのに、完全投げやり。
義母の背中をさすって、
「お義母さん、今日がダメなら、今度、
○○さん(息子の名前=深謝のダンナ)に
車出してもらって行きましょうよ」
と促すが、
「いいのよ放っておいて。お腹の具合が悪くて
出かけられないの。もうね、わからないのよ
この人には!」
義母も言い捨てて自室へ向かう。
あーーーあ、またダメだったか…
何度目のドタキャンだろ。
普段は上品な人たちが、その度に
人格崩壊していくのはシンドイな…
「あの~、お義父さん、どんなに事前に
説明しても、準備しても、覚えていない
お義母さんにとっては全部が突然で、
全部が裏目に出てる気がします…」
訪問診療を利用しているとはいえ、サスガに
通院しないと処方してもらえない薬が結構ある。
「これ以上、通院拒否が続くようだったら、
もう施設を考えた方がいいと思うんですが…」
「…いろいろ調べてはいるんだけどね…」
あ、もう入所は拒否しないんだ…。
パーキンソン病が進行して、
以前のように動けなくなってきた義父は、
すっかり疲れ果てた様子。
「お疲れ様でした……。まあ、なんか、
その気になったら声かけてください」
そっと居間のドアを閉めた。
2階に戻る前に、念のため義母の部屋を
覗いてみた。ベッドに横たわったままの
義母にも声を掛ける。
「具合悪くて、大変なんですね」
「そうよ、ホントに、そういうことを
もっとちゃんと理解して、いろいろ
やるべきじゃない?こっちにだって
心の準備とか、いろいろあるのよ」
「まあその、お義父さんもお母さんのために
いろいろ考えて、準備してくれてるんだ
と思いますよ」
「だっていつも、急なのよ…。
…そう言えば、今日は何曜?」
「金曜日です」
「金曜だから…土、日…。いま混んでるん
じゃないの?…今日は何日だったかしら?」
「20日です。来週はもう年末ですよ」
「もうそんな時期?」
「来週は年末だから、今日よりずっと
混むと思いますよ。今のうちに行っといた
ほうがラクじゃないですか?」
「年末…、それで、今日は何曜日?」
「20日の金曜日です」
「金曜だから…土、日…」
「来週の金曜は27日です。今年は年末年始が
9連休だから、病院のお休みも長いですよ。
今日行っといた方がいいんじゃないかなあ…」
一応伝えて、2階へ戻った。
今日はもうないだろうなと思いつつ。
義母の主観的には、
いつも急に自分の望まない外出を強いられて、
不当な扱いを受けているとしか思えない。
でも義父は何度もドタキャンを繰り返されて、
表面張力いっぱいいっぱいで、常に決壊寸前。
義父なりに頑張ってるのに、噛み合わない。
もう本当に在宅生活は限界が近づいてる。
しかし義母は要介護2。
要介護3以上でないと、
スグの施設入所も難しい。
どーしたものか…。
考えあぐねるが、
すぐ結論が出ないので
仕方なく原稿作業に戻る。
突然、行く気になった義母。仕度をするうちに…
ところが、2時間後。
「なんか、その気になったらしい。
手伝ってもらえる?」
と義父からのコール。
マジすか、なんで⁈
いや全然いいんですけど。
この機を逃してなるものか!と
階下へダッシュすると、
居間中に散らばった洋服の中で
身支度する義母が、ぶつぶつ
呟きながら何か探してる。
「お義母さん、何かお手伝いしましょうか」
「長い半袖が欲しいの」
長い半ソデ?どっちなんだ??
いきなり難しいオーダー来たな…
「下着ですか?とりあえず半袖を
探せばいいですか?」
それらしきモノを幾つか洗濯物から
引っ張り出して、袖を並べて比較して見せる。
「この中だと、コレが一番、袖が長い
ですかね。あとのは、ほぼ袖なしですね」
「じゃあそれでいいわ」
と言いつつ、独りでは下着が上手く脱げない様子。
「ちょっと失礼します!」
声を掛けて、バンザイ状態で脱皮してもらう。
「手が冷たくてごめんなさい」
「あらそんなのいいわよ、ありがとう」
「風邪ひいたらマズいですからね、ハイ、
次行きましょう。ブラウスですか?」
「そう、ブラウスはこれでいいわ」
利き手じゃない肩だけ通すのを手伝う。
ヘルパー研修の担当してて良かったなあ。
「これだけじゃ寒いわ…何か…」
「そうですよね、どれ羽織りましょうか」
カーディガンとジャケットを示すと、
ジャケットを選択。
「あと、一番上はコートですかね。
これはどうですか?」
ソファの上にあったグレーの厚手フェルトの
ハーフコートを渡すと、
「これじゃ重いわ」
「じゃあ、お義母さんのお部屋、
探してきましょう」
これまた大量の洋服の中から、
お義父さんも候補の服を出していた。
「グレーのコートは重いそうなので、
何か軽いのってありますか」
「居間にあるよ、赤いのが」
「何それ、知らないわ」
「何言ってんだよ、あるだろ!」
追いついて来た義母に、突然キレる義父。
「あ、そうですね、ありましたね、
赤いウインドブレーカーが椅子の上に!
持ってきますね~!」
実際に見せると、義母も納得。
すんなり服装確定!
「あと、シャッポ、シャッポ」
義父が帽子を探し出した。
今時シャッポって言う人いるんだな~
「お義母さん、帽子を探してくれましたよ。
ビロードみたいでオシャレですね」
「髪を何とかしなくちゃ…」
山姥状態に乱れていた長い白髪を、
器用に自分で後ろに結っていく。
「あら、ピンはドコかしら」
鏡台の引出しを全部開けても見つからない。
「ちょっと失礼」
とにかく物が多いので一段ずつめくってみる。
「ありましたよ!」
「あらありがとう」
髪をピンで留めて、頭部にピッタリはまる
帽子を被り、帽子もピン止めしたら、
おお、いいカンジ!身支度完了!と思ったら、
「いやだわ、クリームくらい塗らなくちゃ」
お義母サマ、女子力高っ!見習わねば…
「いい香りですね」
そう?と言いながら、まんざらでもなさそう。
「じゃあ行きましょか!
お義父さんに伝えてきますね」
居間の義父に合図。OKです!!
「じゃあ車呼ぶよ。10分くらいで来るから」
「お義母さん、タクシーすぐ来るそうですよ」
と伝えに戻ると、
「ちょっとトイレ!」
もう籠ってしまっていた。
「あの~、10分くらいで終わりそうですか?」
「大丈夫よ」
そうは言っても、トイレの間に
通院を忘れてしまうかもしれないので、
それとなく近くに待機。
今日こそ上手くいくのか?
いってくれ頼む!!
出かける直前にまたトラブル?
さあ、タクシー到着。
「お義母さん、どうですか?」
声を掛けると、もうトイレを済ませていた。
が、小さなポシェットを掴んで
不安げにウロウロしている。
「カバンが無いのよ…」
「いやいや大丈夫です!玄関にお義父さんが
いつものバッグ用意してくれてますから!」
納得しないので、実際に玄関から
ショルダーバッグを持ってきて見せる。
「そうそう、これよ」
「じゃあ行きましょ!そのポシェットは
お預かりしますね」
「え、要るわよ」
握ったまま放さない。
それを見た義父がまたキレる。
「要らないだろ!全部バッグに入ってるよ!」
「まあまあまあ、手提げ袋に入れて行きましょうよ」
それを持つのは義父なんだが。
「これがあれば行ってくれるんなら、
いいじゃないですか」
義父を説き伏せつつ、ポシェットを
トートバッグに収納する。
その間に、義母が立ったまま靴を履こうとして
「足がつった」とよろける。
ギャー―!!(脳内ムンク)
「お義母さん!!座ってください!!!」
椅子に腰かけてもらって、改めて片足ずつ
きちんとカカトを収めてもらう。
「靴ベラ要りますか?」
「要る」
「シューズのチャック締まりますか?」
「右がダメ」
「ああ生地を噛んでますね、これでどうですか」
「あ、いいわこれで」
「じゃあバッグどうぞ。肩にかけてください」
「ありがと」
「ホラ、杖あるから、杖」
義父からマイ杖を受け取って、
義母が遂に立ち上がる。
立った!立った!
本当に久しぶりに、
出かけるために自分の足で立って、
歩いて、玄関から出てゆく。
(脳内ではファーストガンダㇺ第1話
『ガンダㇺ、大地に立つ‼』が再生中)
「行ってらっしゃい!
気をつけてーー!!」
タクシーまで一緒に行って見送る。
ヤッターーーーーーーーーーー!!!!
ミッションインポシブルコンプリート!!!
やったぜ!!オレ頑張ったよね??
クリスマス用の贅沢プリン、
前倒しで食べていいよね???
ほぼ寝たきりだった義母が…
なかなか帰ってこなくて気を揉んだけど、
暗くなってから2人揃って無事帰宅。
2時間待ち・検査フルコースで、
相当大変だったらしい。
それでもなんとか、どうにかこうにか
パニックにならずに受診終了。
良かったヨカッタ!!
しかも、行きはタクシーで下った急な坂道を、
帰りは杖をつきながら、自力で歩いて
上がってきたというから驚愕した。
え、ちょっとお義母さん、凄いじゃん!!!
自分がブラック労働時は上り切る気力がなく
ワンメーターでもタクシー乗ってたくらい
エグイ傾斜の坂なのに。
いつも「具合が悪い、具合が悪い」とこぼして、
食事とトイレ以外ほぼ寝たきりだった義母が、
一度自分の意思を発動してスイッチ入ったら、
潜在能力こんなにも発揮できちゃうんだ。
いやマジで凄いわ、お義母さん。
人間って凄いわ。
通院できた3つの理由
今回、どうして急に病院に行く気に
なったんだろうと考えてみると、
理由は3つくらい。
1,「来週が年末で今日より混む」という判断材料
意図した情報提供ではなかったものの、
本人からの質問に答え続けたことで、
「どうせ大変なら、今日の方がマシ!」と
決められたのでは
2,身支度の段階で、心の準備も整っていった
普段うまくいかない身支度も、
ひとつひとつ意思確認をしながら
本人のペースに合わせて進めて行ったので、
身も心も外出へ向かう体勢になっていったのでは
3,ポシェットへの執着を否定しなかったこと
出掛ける気持ちになってるからこそ
カバンが気になったワケで、その気持ちを
受け入れることで、最後の関門を突破した
…というあたりなのかな、と。
今まで多分、
「仕度くらい自分で出来ます」と言いながら、
自室でも居間でも洋服の山を前にすると
情報が多すぎて処理できず、
かと言って、お義父さんが一式準備しても、
一点でも「コレジャナイ」があると
進まなかったのではないかと思われ。
自分がやったのは、
ひとつずつ選択肢を用意して、
必ず現物を見せて、
その都度、自分で選んでもらって、
出来ないところだけサポートすること。
いつもやってることだったんだけど、
でも改めてよくよく考えてみたら、気づいた。
コレって、「モンテッソーリケア」
そのものじゃん…!!
…って、我田引水な宣伝をするつもり
ではなかったんですが(苦笑)
期せずして、リアルタイム介護で、
モンテッソーリケアの妥当性・普遍性を
実感することになったエピでした。
かかわることで見える世界
「そんなのいちいちやってられない、
手間がかかってしょうがない」と
思われるかも。
でも、実際は逆で。
本人が納得しながら決めた、言わば
「今日の自分がセレクトした、
今日一番の勝負服」だから、
途中で嫌になったり、
ご破算になったりしない。
何より、身支度が仕上がっていくにつれて
どんどん表情が柔らかくなって、
メイクまでしようとするくらい
ウキウキし始めるのを見てると、
手伝っているこちらも嬉しくなって、
胸が熱くなる。
何歳になっても、
認知症になっても、
ひとは生き生きと暮らすことが出来る。
介護者もそれを分かち合える。
もちろん、たまたま今回は
自分がフリーランスで、かつシュラバ後で
時間がとれたから出来ただけだし、
こんなことが言えるのは同居してないから。
24時間365日世話しているお義父さんが
キレるのも当然だし、やさしく出来なくて
当たり前。
フツーの家族はそうだと思うんです。
だからこそ、違う立場の人間が
必要だと思うワケで。
自分が「長男のヨメ」としてだけでなく
一歩引いたかかわりが出来るのは、
もちろん福祉業界での経験のお陰だけど、
もうひとつは、
認知症の人たちの世界を垣間見た
当事者としての経験が大きいと思う。
認知症の世界を体感した経験
福祉業界28年の間に、数100人単位で
認知症や知的障害や精神疾患などの
人達にかかわらせてもらって、
いろんな人生を見させてもらった。
キレイ事じゃ済まないことの方が多くて、
でもそういうところもひっくるめて、
先ゆく人たちに勉強させてもらう機会を
得たことは、得難い経験だったと思う。
さらに、自分自身が、仕事をしながら
認知症状と似たような記憶障害を
体験したことがある。
発達障害の症状が一番酷かった30代前半、
極度の睡眠障害も相まって、
前日仕事をどこまでやったか記憶がなくて、
毎日がパニックだった。
忘れないようにメモしてもそのメモを失くし、
書類を仕舞った場所を忘れて、毎日探し物。
データも毎回初見、会議内容も覚えてない、
毎回資料を最初から見ないとわからない。
「私そんなこと言ってません」と
自分の発言を否定して、職場で孤立。
まだ診断もついていなくて理由も解らず、
過去からも学べず
先がまったく見通せないから、
「次は何が起こるんだ」と
毎日、不安と恐怖しかなかった。
記憶が保てないというのは、
自分が信じられないということ。
自分が昨日と同じ自分である、と
依って立つ足元が揺らぐ事態だ。
周り中、自分の預かり知らぬところで
承知してないルールで動いてる、敵。
ヘタすると数分前の自分も敵になる。
そしてそれよりも一番キツかったのは、
この状況と苦痛を
誰にもわかってもらえないことだった。
だから、
「私はそんなこと言ってない、知らない」
「自分の知らないうちに周りが決めてしまう」
と訴える認知症の人たちの不安も、
凄くわかる。
だから、
「そうだよね、不安だよね」
「あなたのせいじゃないよ」
「大丈夫だよ、覚えてなくても大丈夫だよ」
って伝えたい気持ちはある。
それが届くと、やっぱり嬉しい。
ジェットコースターは続く
まあそうは言っても、多分これからも、
上手くいったと思ったら叩き落されて
胃をキリキリさせたり、
あっちが良くなればこっちが倒れたり、
クアッド介護の天国地獄ジェットコースターは
続いて行くんだろうと想定はしている。
義母の施設入所もカンタンには
進まないだろうし、
義父がいつ難病の拘縮が始まったり
転倒したりするか分からない。
遠距離介護の父母は、今は小康状態だが、
いつまた倒れるか医者も予測不能だし、
次の発作の時は、一発KOの可能性も高い。
それでも、
いつか突然終わるかもしれない時まで、
出来る範囲で手は打ちつつ、
ムリのない形で、なるべくお互い
通じ合える瞬間を探して、
見届けられればと思ってます。
※この記事を読まれて、
「そりゃ理想だけど、
自分はこんなふうにはできない」と、
思われた方もいらっしゃるかもしれません。
大丈夫です、聞いてください!
私も最初、母の介護が始まった頃には
全然やさしく出来ませんでした。
その話は、また別途書きたいと思います。
家族の関係は本当に人それぞれで、
介護は正解がなくて、
誰も間違いはないので。