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親しさのバロメーター

仲良くしている人が、なんのために生きるんだろうと呟いたとき、とても意外に思った。
それは、彼が私とはあらゆる意味で対称的だと思っていたからだ。

彼は、周囲に愛され、評価され、結婚し、可愛い子供がいて、
見た目がよく、不快にさせない程度に周囲を頼り、正義感も強く、心が成熟しているように見える。
そんな人だ。

そんな人は、なんのために生きているのかなんて疑問に思う必要がないと思っていた。

だから、
「自ら選んだ家族と共に居る人は、生きる意味を考える頻度が減るか、無くなると思っていた。」
と、思わずそう告げた。

そしたら、
たしかに頻度は減るけど、考える暇がないだけ、
という、これまた少し意外な答えが返ってきた。

考える必要がないほど充実してるわけではなくて、
考える時間が減るほど忙しくなるのか、と。

人は、2つの人生を生きられないから、他人のことは想像するしかない。
そして、その想像は、どうやら間違いなことも多いようだ。

それを気付かされた会話だった。

こういうのをどう表現するんだっけ。
「隣の芝は青い」か。
違う気もするが。

さて、親しくとも深く共感して分かり合うなど、期待できないということだ。

それとも、互いの勘違いに気付いた数が、親しさのバロメーターなんだろうか。
勘違いを喜ぶ気には、あまりなれないものの、それも一理あるのかもしれない。
いつも分かった気にならず、ちゃんと相手に真っ直ぐ確認し、
勘違いを修正し続けられることが、親しい仲というものなのかも。

これを何と言うんだっけ。
「親しき仲にも礼儀あり」か。
違う気もするが。