見出し画像

映画「明日に処刑を…(Boxcar Bertha)」 ~アメリカン・ロードムービーの原点

 先日、ある古い映画をDVDで見たら何か書きたくなった。まだ、何を書こうか最終的に決めていない。とりとめのない話を書き始める。タイトルは後でつける。
 
 そのDVDで見た映画のタイトルは「明日に処刑を…Boxcar Bertha)」。DVD自体は10年以上前に購入したもの。この映画を見るのは、購入直後に2回ほど見て以来だ。正月休み明けに、古い映画でも見ようと思ってDVD・BDのコレクションを漁っていたら見つけたので、何となく見る気になった。


■明日に処刑を…

 突然だが、好きな映画監督を数人挙げろと言われれば、そんなにコアな映画ファンではない僕は、サム・ペキンパー、クエンティン・タランティーノ、コーエン兄弟、そしてマーティン・スコセッシあたりが思い浮かぶ。マニアックな映画好きから見れば、かなりベタな選択かもしれないけど…。そのマーティン・スコセッシの映画の中ではかなりマイナーだが記憶に残る作品のひとつが、今回見た「明日に処刑を…」だ。
 
 「明日に処刑を…」は、1972年に公開されたスコセッシの初期の作品で、小説「Sister of the Road」を映画化したものだ。Wikipediaによれば「…Sister of the Roadは過激派にして渡り労働者であるバーサ・トンプソンについての自伝風小説であり、作者は医師のベン・ライトマン」…とのこと。この映画は、原作に忠実というよりは、原作を勝手に解釈・改変しており、非常に低予算で作られたとのことだが、その後のスコセッシ作品へと繋がる要素がいろいろと散りばめられている。映画のあらすじは「…30年代初頭、父を亡くした女性バーサ(B・ハーシー)は貨車にただ乗りしては放浪を続けるホーボー生活に入り、労組の活動家ビル(D・キャラダイン)と知りあい恋に落ちる。やがて二人と他の仲間たちはギャング団を結成していく…」というものだ。そして、この映画とスコセッシのスタンスについては、映画の世界の知識が少ない僕なんかがヘタな解説を述べるよりも、町山智浩が書いたこちらの文を読んで欲しい。さすがに町山智浩で、映画の背景も含めて僕が感じたこと、そして知らないことを含めて、この映画の本質を上手く掬い取っている。
 僕は最初にこの映画を見たとき、半死半生状態の主人公のビルがキリストのように手に釘を打たれて貨車に磔にされるシーンが強烈な印象として残っていたが、今回あらためてこの映画を見た際にも、同様にこのシーンが強く瞼に焼き付いた。それにしても、「明日に処刑を…」という邦題はあまりにもひどい。原題の「Boxcar Bertha」は、「有蓋車(屋根付き車両)バーサ」という意味だ。
 
 主演したデビッド・キャラダインとバーサ役のバーバラ・ハーシー(「ハンナとその姉妹」「最後の誘惑」あたりが記憶に残るが、けっこうエロい女優だと思う)は当時、実生活でも付き合っており、2人の間には1972年に息子が生まれている。キャラダインとハーシーは、当時のカウンター・カルチャーに影響され、ロック、ドラッグ、フリー・ラブ、東洋思想に傾倒していた。2人はまさに、カウンター・カルチャーを体現したカップルだった。「明日に処刑を…」という映画は、まさにデビッド・キャラダインのために作られた映画のようだと、あらためて思った次第だ。

■デビッド・キャラダインの最期

 「明日に処刑を…」に主演したデビッド・キャラダインは、僕が好きな俳優の一人だ。個人的には、彼が主演した作品としては映画よりもTVドラマ「燃えよ!カンフー」がもっとも印象に残っている。そして、映画作品では「ウディ・ガスリー/わが心のふるさと(Bound for Glory)」が記憶に残る。思えば「ウディ・ガスリー/わが心のふるさと」は、「明日に処刑を…」と時代背景のみならず思想的な背景も共有する部分がある(こちらの記事)。いずれにしても、異議申し立て運動、カウンター・カルチャーの嵐が吹き荒れた60年代後半から70年代にかけての彼は、時代を象徴する俳優の1人であったように思う。「燃えよ!カンフー」をTVで見ていた時には、その風貌から東洋にルーツを持つ俳優かと思ったが、実は違うことを後から知った。彼のルーツは複雑で多岐に渡っているが、東洋の血は混ざっていない。なんとなくアジア的な風貌は、ネイティブアメリカンのチェロキーがルーツのひとつにあることから来るもののようだ。
 
 さて、そのデビッド・キャラダインは2009年にバンコクのホテルで客死したが、何とも言えない最期を遂げている。彼の死は、当時のニュースでそこそこ話題となった。
 彼の死因は、Wikiを引用すると次のようなものだ。「…2009年6月4日、新作映画出演のため滞在していたバンコク中心部のホテル、スイスホテル・ナイラートパーク・バンコク(Swissotel Nai Lert Park Bangkok)の352号室で首と性器にロープが巻きつけられた状態で死亡しているのが発見された。首と性器に巻きつけられた2本のロープは結び合わされて、遺体がクローゼットの中に吊るされた状態だったとのこと。
 遺体発見時に部屋に内側から鍵がかかっていたことや、遺体に争った形跡がないこと、防犯カメラに部屋を出入りする人物が映っていないことなどから、現地警察は窒息プレイ中の事故の可能性を指摘している…」。ということで、変死ではあったが、刑事事件にはなっていない。
 ちなみに「窒息プレイ」とは、「性的興奮を得るために意図的に脳への酸素供給を停止させ仮死状態になる行為」のことで、要するに変態的自慰行為のひとつだ。僕はこのニュースを聞いた時に、不思議な気持ちになった。「驚いた」というよりも、変な話だが「明日に処刑を…」に主演したデビッド・キャラダインが、「彼らしい死に様を迎えた」ように思ったのだ。
 
 実はこのナイラートパーク(2016年12月31日に閉業し、2019年6月にモーベンピック BDMS ウェルネスリゾートバンコク⦅Mövenpick BDMS Wellness Resort Bangkok⦆としてリニューアルオープン)というホテルだが、僕は彼の死以前の2005年~2006年のバンコク出張時に立て続けに3回ほど宿泊・滞在したことがある。国家元首や日本の皇族も泊る5つ星ホテルだが、特に気取った雰囲気ではなく、スイートルーム以外は値段もさほど高くはなかった。滞在中にプールで泳いだりもした。BTSのプルンチット駅から徒歩5分ぐらいという好立地にも関わらず、市街地の中心部とは思えないほど緑に囲まれた落ち着いたホテルだった。僕は、このホテル、その客室内部をよく知っているからこそ、デビッド・キャラダインの死の状況を妙に具体的にイメージしてしまった。
 
 本稿とはあまり関係のない話だが、タイで客死した有名人と言えば、チェンマイのホテルで死去したテレサ・テンを思い出す。テレサ・テンもまた時代に翻弄された人生だった。彼女は、中国の民主化支援を表明して民主活動家とも交流をしたが、中国の天安門事件が起こるとそれに参加した若者たちの象徴・偶像に祭り上げられ、中国当局から好ましからざる人物として監視対象となった。天安門事件の弾圧に続く民主化運動の衰退の中で、彼女は徐々に心と体を病んでいく。そして1995年5月8日、静養のために訪れていたチェンマイのメイピンホテル(宿泊したことはないが外観はよく知っている)で気管支喘息による発作を起こし、搬送先のチェンマイラーム病院で死去した。彼女の遺体は台湾に搬送されて大規模な公葬が営まれたが、その後、彼女の死について中国当局が関与したのではないかという噂が絶えず、時代に翻弄された歌手としての印象が多くの人の心の中に刻まれることになった。

■ホーボー(HOBO)

 話を映画「明日に処刑を…」に戻すが、この作品で描かれるホーボー(HOBO)とは、19世紀末から20世紀初頭の大恐慌時代にかけて、仕事を探して大陸を旅する労働者を指す言葉だ。彼らは主に鉄道に乗って各地を移動し、季節農業労働や建設作業などに従事しながら生計を立てていた。ただ、特に大恐慌時代にはいい仕事にありつけることは運任せで、その日の食事にも困る貧困の中で放浪する人が多かった。それゆえに多くは無賃乗車を繰り返し、それを取り締まる鉄道会社の職員や雇われた警備員とのトラブルが頻繁に起こった。当時の鉄道会社雇われ警備員は暴力的で、無賃乗車が見つかるとリンチされて半殺しの目に遭うことも常態となっていた。
 
 一方でホーボーには自由な生活を求めて放浪するという一面もあり、また鉄道会社の暴力に抵抗したしたことで、「権力に屈せず自由な生き方を選んだ人々」というイメージが出来上がった。実際にホーボーが過去のものになった1930年代以降、文学では、ドス・パソスの「USA(三部作)」、ジャック・ロンドン「ザ・ロード」などでアメリカ大陸放浪が描かれ、50年代になって、ャック・ケルアックの「路上(オン・ザ・ロード)、1958年」などでもこうしたホーボーの精神が表現されていく。特に世界的に異議申し立て運動が盛んになり、アメリカでヒッピー・ムーブメントが起こった1960年以降は、権力に抵抗する存在としてのホーボーの精神に共感する風潮がさらに盛り上がった。ケルアックの「路上(オン・ザ・ロード)」は、ニューヨーク・パンクを生み出したビートニクス・ジェネレーションを代表する作品として、その後のアメリカの文化に大きな影響を与えた。
 文学だけではなく、音楽や映画にもホーボーの精神を体現する作品が多く登場した。ホーボーを描いた映画としては「北国の帝王」(1973年、ロバート・アルドリッチ監督)が最も有名だが、今回取り上げた「明日に処刑を…」もそのひとつだ。
 
 ホーボーの生き方に共感し憧れる風潮は、音楽の世界にも影響を与えた。実際にホーボー達が作って歌ったといわれている「ホーボーソング」は、やがてアメリカのフォークソングに同化して、大衆の中で歌い継がれることになる。1972年にアーロー・ガスリーが発表した「ホーボーズ・ララバイ(Hobo's Lullaby)」は、同じアーロー・ガスリーの「ラスト・オブ・ブルックリン・カウボーイズ」などと並んで、その後のアメリカンミュージックに大きな影響を与えたエポックメイキングなアルバムだ。このアルバムのタイトルにもなった曲「ホーボーズ・ララバイ」は、日本語の歌詞で聞いた人もいるだろう。70年代の日本の関西フォークのシンガーなどがステージでよく歌った曲だ。マイナーな関西系フォークシンガー、古川豪が訳詞をした日本語版などが知られている。
 
 ちなみにここで書いたホーボーズ・ララバイに関する記述は、かなり昔に僕自身が自分のサイトで書いた文のコピーだ。知らないうちにWikipediaの「ホーボー」の項目から勝手にリンクされていて驚いた。
 ちなみにこの「ホーボーズ・ララバイ(Hobo's lullaby )」、僕はエミルー・ハリスが歌っているバージョン(シングルカットもされている)が好きだ。

■アメリカン・ロードムービーの原点 ホーボーとルート66

 こちらの記事で、僕は60年代末から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」が好きで、人生において大きな影響を受けたことを書いた。中でも特に、「真夜中のカーボーイ」「イージーライダー」「バニシング・ポイント」「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て」「スケアクロウ」「ハリーとトント」など、アメリカン・ロードムービーに強く惹かれ、影響を受けた(こちらの記事を参照)。このアメリカン・ロードムービーの原点のひとつに「ホーボー」の存在があるように思うのは、僕だけではあるまい。
 
 ロードムービーと言えば、上記の60~70年代の映画以外に、80年代以降にも「カリフォルニア・ドールズ」「スタンド・バイ・ミー」「パリ・テキサス」「ペーパー・ムーン」「テルマ&ルイーズ」「ストレイト・ストーリー」「オー・ブラザー」など多くの作品がある。好きな映画も多い。でも、僕にとってのロードムービーは、先に書いた60~70年代のアメリカン・ニューシネマに含まれる作品群だ。サマー・オブ・ラブを経験し、ヒッピー・ムーブメントが起こり、文学や音楽の世界でサブカルチャー、カウンター・カルチャーが勃興する時代の中で、「旧態依然とした価値観の打破」、「古い道徳観の破壊」、「閉塞した社会への反発」、「権力への抵抗」…などを主題にした作られた映画こそが、僕にとってのアメリカン・ロードムービーだ。そしてそれらは、自由を求めて旅をするホーボーの精神とそれを下敷きにしたビートニクス・カルチャーを背景にした作品でもあると、強く感じている。ホーボー(HOBO)は、アメリカの歴史と文化を象徴する言葉でもある。
 
 話は変わるが、ちょっと前にNHKで放送されているドキュメンタリー番組「映像の世紀 バタフライイフェクト」で、「ルート66 アメリカの夢と絶望を運んだ道」が放映された。ルート66の歴史を辿ったとてもいい番組だった。このルート66が歩んだ歴史もまた、ホーボーと同じくアメリカン・ロードムービーの原点のひとつである。
 
 ルート66(Route 66) は、かつてアメリカ合衆国の東西を結んだ主要な幹線道路で、アメリカの歴史や文化に深く根付いた象徴的なハイウェイだ。この道は1926年に開通し、シカゴを出発点とし、カリフォルニアのサンタモニカまでの約3,939 km(2,451マイル)を結んでいた。
 「母なる道」(マザー・ロード:The Mother Road)とも呼ばれるルート66は、経済不況時代から第二次世界大戦後の繁栄期まで、多くのアメリカ人が新しい生活や冒険を求めて西へ移動する道だった。特に1930年代のダストボウル(開墾によって発生した砂嵐で農地がダメになった)の時代、職を求める失業者や農民たちはこの道を使ってカリフォルニアへと移住した。
 1930年代末に発生した干ばつと砂嵐を契機とした農業の機械化を進める資本家たちと、土地を追われカリフォルニアに移っていった貧困農民層との軋轢闘争を素材とした映画「怒りの葡萄」(スタインベック原作)では、ダストボウルで耕作不能となり生活に窮した農民が、オクラホマから、仕事があると聞いたカリフォルニア州に一族あげて引っ越すことを決めて、すべての家財を叩き売って買った中古車でルート66を辿る旅が描かれている。
 そして同じ番組中でも紹介されていたが、ルート66は60年代末のサマー・オブ・ラブに始まる「自由の地カリフォルニア」を目指して多くの若者が辿った道でもあった。
 
 「怒りの葡萄」以外にも、「断絶(Two-Lane Blacktop)」「イージーライダー」、「ハリーとトント」、「カーズ(CARS)」、「レインマン」「テルマ&ルイーズ」「ミッドナイト・ラン」「バグダッド・カフェ」など、ルート66が登場するアメリカン・ロードムービーは多い。鉄道で移動するホーボーと並んで、自動車で移動する道「ルート66」もまた、アメリカン・ロードムービーの原点であろう。
 
 個人的にもルート66には思い入れがある。まずは、小学生の頃 父親が見ていたTV番組で「ルート66」というのがあった。主人公の若者コンビが乗るシボレー・コルベットが、何ともカッコよかった。当時、この「ルート66」を始め、「三ばか大将」「奥さまは魔女」など白黒テレビで見るアメリカのTVドラマは、豊かなアメリカの生活が見えてなんだか眩しかった。

 余談になるが、作家の沢木耕太郎がエッセイの中で、好きだったTVドラマとして「ルート66」と「逃亡者」を挙げていた。主人公が移動する、旅をする物語を見ていると、旅が好きな自分もどこかへ行きたくなる、放浪したくなる、そうした意識が高まるのが理由だそうだ。僕も沢木耕太郎と似た部分がある。僕も旅が好きで放浪癖がある。それがロードムービーが好きな理由のひとつなのかもしれない。

 僕は、1980年代にアメリカ大陸を3回に渡ってグレイハウンドバスで長距離旅行をした。ひとつは、「真夜中のカーボーイ」のラストシーンを求めてニューヨークからマイアミへ。次に、大好きなアメリカン・ルーツロックの源流を求めてシカゴからメンフィス、ナッシュビルを経由してニューオリンズへ。そしてもうひとつが、ルート66を辿る旅だ。
 1983年の夏、当時ニューヨークに住んでいた僕はグレイハウンドバスでルート66を辿ろうと計画を立てた。その時点で1930年代のルート66を1つの路線で忠実に辿るグレイハウンドバスのルートは存在しなかった(ルート66は1984年に廃止されている)。それで、シカゴを起点にセントルイス、オクラホマシティ、アマリロ、サンタフェ、アルバカーキを経由してロサンゼルスまで、主要都市で安いモーテルに泊まりながら10日ちょっとかけて旅をした。途中トレールウェイズのバスも使った。当時、グレイハウンドの2週間で149ドル乗り放題のチケットは、グレイハウンドが路線がない部分に限ってトレールウェイズのバスにも乗れたのだ。
 今になって思えば、40数年前のこのバスの旅は、僕にとって「アメリカはどんな国か」を体験させてくれた貴重な時間だった。

いいなと思ったら応援しよう!