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先崎彰容「違和感の正体」「バッシング論」(新潮新書)を読んでみての感想

こんにちは、カオマンガイコダイラです。

あなたはこの世の中をどう見ますか、そして何を考えますか。
世の中を考えるヒントとなりそうな本を読みましたので、感想を書きたいと思います。

この2冊に共通しているのは、筆者の専門である日本思想史の立場から、現代社会を見返し、「時代への処方箋」を書こうという姿勢です。

「違和感の正体」

恐ろしい本でした。

最初はただ世に蔓延る自称「知識人」たちへの批判(つまり、違和感)と思っていましたが、「東日本大震災」という筆者自身が体験したカタストロフィーを切り口に、日本というものの総体は近代以降なんら変わっていないこと、また迫力ある思想を言語化できる思想家の不在する現在を説きます。

確かに「自分の正義を正義だと疑わないで、他者攻撃もいとわない人」が、この世界にはたくさんいます。筆者は、北村透谷や高坂正尭など過去の思想家の考えを用いながら、自省することを主張します。

「自分の考えは正しい、この健康食品は絶対に効くだから飲んでみよ。私の信仰している宗教は絶対に君のためになる、世界平和に資する、だから信じよ──こうした自己絶対化、自己普遍化こそ、もっとも恐ろしいものではないですか。平和や教育や倫理を錦の御旗にして自分流の哲学を絶叫するのは、そこら辺の会社の社長などで、嫌というほど日常生活で経験しているはずです。(後略)」(違和感の正体より)

筆者の主張はこの言葉に詰まっています。そして最後に、こうした自己絶対化が一般化し、正義の名のもとに怒号と暴力的発言すら飛び交う現在の状況に必要な「あるもの」を、やはり過去の思想家の発言を引用して示唆します。

しかし、大胆な筆者の主張にも驚きましたが、私が最も衝撃を受けたのは、終章「震災論」でした。
終章では、筆者が実際に福島県で体験した東日本大震災の経験をもとに論が組み立てられます。そして、そこに記述されていた震災後の世界を「散文的に生きる」人間の姿を思い、思わず涙が流れました。どこか遠くで発言された正論も、どこか遠くで行われているデモも自分たちを助けてはくれない中で、筆者はことばを書き残すことを決意します。その姿勢に共感するところがありました。

思想のありそうでない世の中をどう考えるか、筆者は避難先の住宅から問いかけます。

「バッシング論」

「違和感の正体」の続編に近い形で書かれた時事評論です。

とくに(現在の)上皇陛下が行った「おことば」を論じる章が白眉です。筆者は、あのメッセージを出さざるを得なかった上皇陛下の背後に、生産性のなく衰えた人間を低く見下す日本社会のあり方を指摘します。生産性ばかり追い求める社会への批判は、安易な左右思想を超えた議論です(その後に『保守思想』とは何か、ということも論じていたりします)。

この本では、筆者は社会にある根本の問題の原因を「辞書的基底」の不在と指摘しています。その意味は(私には説明するのが……)やや難しいので本書を読んでみていただくとして、この不在は常に新しいものを是とする主義や、経済的合理性・生産性のみを追い求める姿勢から由来しています。
そうすると、やはり日本に暗い影を落としているのは(しそうでしていない、できそうでできない)「経済成長」という名の亡霊なのではないだろうか?と私は思いました。

筆者はまた、自分を正義と疑わず、不祥事へのバッシングを続ける知識人やメディア、そして巷の人々にも(前作同様)疑問を呈しており、その状況がある破滅的事態を招くかもしれないと指摘します。それは、戦前の社会を点検することによっても見えてくる、ありうるかもしれない災厄です。

この社会は、これからどう動いていくのでしょう。
社会への違和感を抱く私みたいな人間に必要なのは、絶えざる自己点検なのかもしれない、ということを教えてくれるシリーズです。
違和感を抱くことがあったら、読んでみてください。

#散文 #新書 #感想 #先崎彰容 #社会 #東日本大震災


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