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【感想】誰かの夢でできている【鉄ミュ高速鉄道スピンオフ】

『ミュージカル「青春-AOHARU-鉄道」~誰が為にのぞみは走る~』を配信で鑑賞したので、感想を書きます。


いつの話してんだよ今は『地下ミュ』だろとは私も思うのですが(地下ミュ配信も見た)(めーっちゃ良かった)今書きたいのは幹ミュの感想なので、書きます。

私はつい先日、出演者きっかけで鉄ミュを見てみたいな〜と思い立ち、じゃあ先に漫画を読んでみよっかな〜とか言っていたら爆速で全巻買って読み切ってしまい、そんなことをしていたら地下ミュのためのミュ過去作(5以外)配信がきたので全部見た、そんなにわかもにわかの、薄い鉄道ファンです。青春18きっぷ大好き。もともと鉄道が好きなのでずっと前から存在は存じあげていたんですが読むチャンスがなく、今になって秒で転げ落ちたのでむしろ受験生の頃とかにハマらなくてよかったねと思う。劇薬じゃん。



漫画原作で舞台を作る場合、どこの部分を舞台化し、どの要素を残して何を変更するかは様々な方針が取れる。特に、舞台1本の尺より長い長期連載作品、逆に極端に短い短編作品を舞台化するならなおさらだ。例えば、同じ擬人化ジャンルで同じ短編漫画集が原作の「ミュージカル ヘタリア」シリーズは、原作エピソードを組み込みながらもミュージカルオリジナルの一本のストーリーを上演するタイプだが、鉄ミュは短編漫画をそのまま、短編のままやる。びっくりするぐらいそのまま、やる。

けれども、その選び取りかた、並べ方は単行本や時系列の通りではない。もちろん、出演キャスト、それに伴う登場キャラクターの都合、舞台の物理的な動き方の都合などなどの事情はあるのだろうけれど、それはともあれ「選ぶ」「並べる」というだけでも、タイトルをつけて一本の公演としてパッケージすると“文脈”のようなものを作ることができるのだなという発見があった。
鉄ミュ3あたりからそれを感じたのだが、特にスピンオフ公演を鑑賞して強く感じた。

じゃあ高速鉄道スピンオフってどういう話だったのかと言えば、もうそれは「誰が為にのぞみ=望み=新幹線は走るのか」という、タイトルそのままの物語であったように思う。

急に別の話をして申し訳ないのだが、以前「説明できないことを言うう」というトークイベントでオモコロ編集長の原宿さんが「この世界は誰かの夢でできている」という話をしていた。誰かが、空を飛びたいな、と願ったから飛行機が飛んでいる。暖かく過ごしたいと願ったから服があり、暖房器具がある。手軽に記録を取れたらいいのにと願ったから鉛筆がある。そんなふうに考えると、現在の世界はいつかの誰かが夢見たことだらけで構成されていると言える、そういう話だったと記憶している。

幹ミュを見て、そんなことを思い出した。新幹線というのは、そんな“夢”の具現化として、わかりやすい例のような乗り物であるように思う。誕生から60年近くが経って、当たり前のような存在になってもだ。もちろん、この世界は夢だらけであり、在来の鉄道だって夢の形であることには変わりないのだが、新幹線にはまだまだ、夢の超特急という概念がよく似合う。ミュージカルの主軸にあるのは、新幹線は誰かの「望み」であり、「希望」の形だということ。

それが特に腹落ちするのは、私が上越新幹線の沿線に生まれ育った人間だからというのもあるかもしれない。裏日本と呼ばれた日本海側と首都をつなぐ、雪に負けない乗り物。彼のストーリーはわかりやすい、我々沿線民の“望み”の物語だ。当然、このミュージカルではその“望み”も描かれる。

しかし、このミュージカルで「誰が為に」の「誰」が指すのは決して乗客、政治家や技術者ら人間たちのことだけではない。この物語は人の形を取り人格を持った路線たちの物語だからだ。「なぜ新幹線は走るのか」は「どうして僕らはここにいるのか」というアイデンティティの問いでもあり、そこには歴史や路線の運用に伴った、さらにそれにとどまらない人間関係がある。そこが擬人化ものの醍醐味だ。

日本最初の鉄道として先頭を歩き続けていた東海道本線は、舞台の冒頭で、のちの東海道新幹線になる男に出逢い、「ずっと貴方を待っていました!」と力を込める。

これに始まり、つばめがはとに託した望み、函館本線が北海道新幹線に託した望み、篠山線が新幹線に見出した望み、路線たち自身の走り続けたいという望み。人間との関係だけでなく、路線同士がお互いに希望を託し託され生きている。誰かの希望になるという役目を引き受けることは、とても重いことだ。その道程では、誰かの思いを踏みつけることもある。犠牲もある。期待も批判も希望も嘲笑も、全てを受け止めて進まなければならない。北海道や北陸の苦しみ、山形の決断。それはそれぞれの短編で断片的に、繰り返し描かれる。

それらが循環し収束する世界最初の高速鉄道である東海道新幹線は舞台の最後、最初から望んでそうなったわけではなかった、自分が東海道本線の兄であることを宣言し、これからも日本ナンバーワンとして走り続けることを引き受けて、物語は幕を閉じる。冒頭で示された望みが収束する。東海道が望むのは、新幹線の次の"夢"、リニアだ。

1話ごと、または単行本単位で読んでいたときと、見ていたものは同じはずで、なんなら劇中歌の歌詞も驚くほどそのままセリフから取っているのだけれど、選び方と並べ方で受け止め方はだいぶ変わってくるように思う。これって、こんな話だったんだ……という気づきがある。

「あの頃、巫女との思い出」という話がある。これはドラマCDにも収録されているが、ドラマCDとミュージカルではセリフが同じでもかなり解釈が違うように思った。元の漫画が商業誌の範囲で読めなかったので元のニュアンスがどっち寄りなのかわからないのだが、少なくともこのミュージカルの流れに配置するにはこれが合っているように感じた。前半で理想と信念を語って開業した双子の新幹線2人が、30年後に厳しい現実に晒された上で正面から口論する。時の流れをひしひしと実感して、演技も相まってやたらと突き刺さった。

これは誰かの「読み方」の追体験だ、と感じた。原作のある物語を別の形にするというのは、誰かのフィルターを通して物語を味わうということだ。この作品は物語自体に手を入れるのではなく、文脈を取り出して話を選んで並べ、それを強調するための調整をすることで、演出脚本楽曲出演者全て含む制作サイドが「この作品の面白さのキモってここなんじゃないですか????」と主張することを選んだ。原作ありのメディアミックスでこういう形式を取ってくれるのは、読者にとってはかなり嬉しい姿勢だと思う。私は嬉しいと感じた。

というか、もしかしたらそれは「楽しみ方のガイドラインを引いてくれる」ということに関しては「擬人化もの」というジャンルそのものと同じことをしているような気もする。誰かが個々の情報に向き合って、点と点を結んで星座にして物語にする方法を教えてくれて、楽しみ方をガイドしてくれる。それってそもそも、鉄道を楽しむ、ということについて青春鉄道がやってきたことだったのかもしれない。そんなことを思ったらこの対象との距離感というか、なんだかいろんなことが腑に落ちるような気がした。同人から追いかけ続けてきてミュに至った人にこそ見える景色もあるのだろうけれど、初心者としてはこういう部分が印象に残ったし、ありがたいなと感じた。



もちろん俳優陣の演技や楽曲、照明など演出全て、これらがむちゃくちゃ良いのは言うまでもないというか、これ以外の話するとキリがないし語彙力もなくなるのでこの辺りにしておきます。横で本編を流しながらこの文を打っているのですが、今かにめしの歌で泣いています。なんか泣いちゃうんだよな。夜勤明けの頭に効く。曲が良すぎるんですよね、全編において。個人的には、歌のない、一番最初の「黎明」のあたりでバックにかかってる曲とかつながる青春の弦楽アレンジもめちゃくちゃ好きなのでサントラ売ってほしい。

ここまでお付き合いいただいた方がいらっしゃったら本当にありがとうございます。もうすぐユーネクストの配信期間が終わっちゃうので、これから5の円盤を買って見て、万全の状態で最新の6を待とうと思います。それはそうと今年は敦賀に行かなきゃいけないし、E8にも乗りたいのでやることはいっぱいですね。楽しみ〜〜〜〜



今日はここまで。ありがとうございました。



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