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巨塔の外で生きることー『白い巨塔』と男性性ー

「男らしさ」について人生で最も考えた数ヶ月。


たしか中1の頃、『白い巨塔』(唐沢寿明版)を観たときに、私は男だったら財前五郎のようになって早死するだろうな、と思ったことを覚えている(財前五郎と自分を紐つけるところに、万能感あふれる子どもらしさが炸裂しているが…)。
地方の平成版家父長制のモデルのような家庭で、「何かを手に入れるためには徹底的に努力せよ」「何がなんでも勝て!」というメッセージを強固に受け取り、それに応えられない自分を想像できない傲慢さ(とある種の健康さ)が存在していた時期だった。


田舎に残した母を想いながら(まるで野口英世と母シカ)、巨塔の中のパワーゲームに打ち勝ち、ついにはトップに君臨する五郎。トップに上りつめる(教授戦に勝つ)ということは、医師として、「男として」のあらゆる名誉と財を手に入れることでもある。
彼の中には何とも典型的な「幸福」(勝つ物語)しか存在せず、それ故に自己にも他者にもケアレスなまま、急死する。

巨塔の中は、見事なまでのホモソーシャルが完成していた。
五郎をはじめとする覇権的な男性性をギラギラさせる男たち。「男らしさ」を体現できない故に周縁化される男たち。排除と序列の下降を恐れ、それを防ぐためには「何でもする」男たち。
彼らの笑顔の裏には、いつも不安が控えているように見えた。

巨塔の女性たち(看護師など)は、医局の潤滑油あるいはケアラーであり、男性医師たちは、クラブにいかなければ「対話(のようなもの)」をすることができない。潤滑油がなければ、何事も機能しないのである。

クラブのママ(黒木瞳)と妻(若村麻由美)を分かりやすく使い分けているところも、五郎の狡猾さと純朴さ、そして脆弱性をよく表していた。性の二重規範のテキストのようである。

そういえば、五郎に唯一対等に物言える男として登場する里美脩二(江口洋介)は、ホモソの「男の友情(俺だけにはお前が分かる、の関係)」を表象する最高のキャラクターだった。
里美は、五郎との対比であたかも善良な人物に思えてしまうが、いやいや、なかなかに大変な人物である。「家庭的」な妻と聞き分けのよい息子は、どれだけ彼に振り回されただろうか。彼の正義の追求の裏には、ケアの搾取がある。巨塔の中での権力とは闘えても、家庭(私の領域)の不正義には無頓着なのである。

巨塔の中のパワーゲームは、どれだけ甘美で残酷なのだろう。
今も昔も、男性たちにとって最も困難なこととは、脆弱な自己のまま、何のパワーゲームもせず、ただ「居る」ことなのかもしれない。
本当の意味で、ホモソーシャルの中の闘争から「降りる」生き方とは、何てことのない脆弱な自分を引き受けるということなのではないか。

私は、ホモソーシャルの中にある強烈な刺激と過酷さを体感として知らない。
知らないけれど、そこから飛び出て、巨塔の外であらゆる属性の他者と共に生きる術もあるということを信じたい。  

五郎は、死によってようやく巨塔の外に出ることができた。 
それがとても悲しい。

私は、私の脆弱性に救われたと思っている。
負けること、失うこと、奪われること。
それらによって命が延びることもある。
壊れ物である自己を受け入れ、そこそこほどほどに「諦めた」後の人生を、私は生きている。

でも、そんなことを言えてしまうのは、私が対等な構成員としてホモソには入ることができない「女性」だからなのだろうか。

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