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鉄塔がある街 (中編)

「一雄、ちょっと聞きたい事があるんやがな、その熱心に動かす右手を止めてくれんか」
 晩飯が終わり、居間にて漫画のページを捲る私の元へ、寝巻き姿の父が静かに寄って来た。多少大きくもある服から出た、細く長い四肢。年老いてもなお皺一つない手足は、確かに皆が言うところの『色白』であった。

「お前、高校出たらどうするつもりや。他の所みたいに畑も持っとらん、漁船を操る才能も、ウチの家系には誰も与えられとらんぞ」

「才能なんて......練習したらええがな。最初っから上手く熟せる奴なんて、この街におらん」

「喋りだけ達者になりよって。お前の友達は、皆小さい頃からの船乗りぞ。今から鍛錬したって、着いていけるかい」

「そんな事ばっか言うさかい、折角のやる気が逃げてしまうわ──」

「一雄、ええか。高校卒業したら、東京へ行くんや。東京で勉強して、東京で就職せえ。俺は二回しか行った事ないが、ええ所ぞ。東京は」

 色白の顔に薄紅の唇。その口が閉まらない内に、洗面室から大きな音を立てて母が飛び出して来た。目は丸く、頬に付いた乳液が未だ擦り込まれる事なく、一箇所に溜まっている。
「東京!? あんた、東京に行くのん?」
 そう大袈裟に驚いた後、乳液が床に垂れた事にも気付かない母は、まさに豆鉄砲を喰らった鳩の表情を浮かべて立つ道化である。

「俺の後輩に、東京なんちゃら大学......とか言う所で、理事しとる奴がおる。まだ創立数年で生徒が集まらんみたいやし、入学試験なんて形だけのもんや──」

「名前も分からん学校に、僕行きたないわ」

「じきに大学の書類が届くさかい......。まぁ、ええ機会やないか。お前がベランダから見てる鉄塔なんか比べもんにならん塔が、東京にはあるでな。まだ立って十年そこらやし、錆なんて一つも吹いとらん」

 怪訝な顔をする私の横で、父と母は我が家の貯金やらの話を始め、次第にそれはこちらへの期待を逸脱し、ただ自らの息子が東京へ出るという興味のみが、話を具体的な色に染めつつあった。親というのは、いつもこうである。
 だが、当の私がそれを迷惑だと考えている訳では勿論無く、未だ見ぬ大都市に心を奪われつつあるのも、また事実だった。


 その年の秋になると、教室にいる生徒の数はぐっと減ってしまった。親の畑仕事を手伝う者や、船持ちの漁師に着いて技術を磨く者。優秀な生徒は神戸や大阪に出て、限りなく薄いであろう大学への望みに発破をかける為の、実地研修を行なっていた。だが、そうした行為は気休めにしかならない事も、皆は理解していた。
 陸上部の練習も、高等部三年生の人数が半数以下に減ってしまった為か、後輩たちのダラけた態度が目に余るようになり、それを叱るのは何故だか私の役目となった。
「お前ら、今の内に走らな損ぞ。いつも怒鳴り散らす先輩がいない内に、タイムを縮めてな、憎き輩をアッと言わせる......。そんな根性ある奴は、この部にはおらんのか」
 こう叫ぶと、皆はその重たい腰を上げて、順に走り出すのだから可愛いものである。中には私に向かって疑問を持つ者もいた。

「関先輩は、秋漁には出んのですか」

「僕は、漁師にはならん。やから漁にも出ん」

「はぁ......畑仕事の方ですか」

「いや、大学に行くんや、僕は。黙って走れ、走れ。もうすぐしたら、僕より怖い鬼軍曹共が帰って来るで」

 走り終えた連中が、コソコソ話をしている。我が校の生徒が大学に行く、という事についての議論であるように思えた。それを満足気で見渡す私の視界に、不機嫌そうな娘が一人、グラウンドの端にぽつりと立っていた。何事かと、近付いてみれば、倉陽子は逃げるようにして、走り去ってしまった。後を追いかけるのは、私ではなく秋のトンボたちである。
良い陽気、秋の風。運動日和よなぁ。
そう呟く私に、返事をする者はいなかった。


 放課後、帰り支度をしていると、廊下より発せられた大きな声が、教室中に響き渡った。
「関先輩、おられますでしょうか」
 下校が遅れた数人の同級たちが一斉に廊下を見るものの、声の主は壁に隠れて姿を見せようとはしない。だが、私にはその馴染みある声について考えるまでもなかった。
「倉やないか。どうした」
教室を出ると、壁にもたれてこちらを見ようともしない彼女がいた。

「部活の事で、話があるんや......あります」

「はぁ、帰りながらでもええか。ちょっと待ってくれや」

 関係性を隠したい余り、僕は普段以上に大きな声を出した。そんなやり取りを、同級たちがどんな目で見ていたのかは、知る由もない。


 帰宅中、こちらの問いかけに対し、陽子はそのほとんどを無視、または溜息で返した。そればかりか、急に立ち止まってみては、鋭い眼光で私を責め立てて見せるなど......。明らかに彼女は何かを根に持っていたし、それが大学に行く件であると分かっていながら口に出さない自分が、妙に女々しく感じた。腹立たしかった。

「あたし、今日変な噂を聞いたんやけど......。一雄君、高校卒業したらどうすんの?」

「どうするも何も......。因みに、陽子が聞いたんはどんな噂なんや」

「街を出るって噂。高校卒業したら、この街を出るって、そう聞いてん」

 何故だか彼女は、大学に進学する、と言わなかった。それは結局、私が街を出る事に直結する言い分だったからかもしれない。

「うん、僕は大学に行くんや。勉強して、金を稼いで、親に家でも建てたろうと思っとる」

「......神戸なん? 大阪?」

「聞いたら驚くぞ。東京や。東京なんたら大学って所に入るんや」

「東京!?」

 それを聞いた陽子は、母と同じく鳩のような丸い目をして一瞬固まった後、自慢の引き締まった脚を動かしたと思えば、颯爽と風と共に走り去って行った。呼び止める間もなかった。
 頭上では、暗い空に隠れた電線が大きな唸りをあげて揺れており、その一本一本が触れる事なき幅を持って、私と彼女の距離感を、こちらにただ伝えようとしていた。
距離、東京と寂れた港街の距離とは──。
 その晩、風呂上りに地図帳を開いた私は、幾らページを捲っても見付ける事が出来ない東京という都市に、計り知れない距離感と、大いなる希望、夢を抱いて眠った。
「母さんに似て、気が早いやっちゃ」
開いた地図帳を見て、父がそう呟いていた。


「なぁ、お前知っとるか? 相馬爺の漁船が、もう長い事戻って来とらんってよ」
 数日の漁を終えて帰って来た友人からの話。恐らく船仲間から聞いた話なのだろう、その会話に具体的な事は何も含まれてはいなかった。

「相馬爺の漁船って言えば、街一番の大漁船やないか。また瀬戸内から出て密漁でもしとるんと違うか」

「いや、当の相馬爺は、夏から長い事寝込んどるんや。無茶な爺さんやさかいなぁ、日の下に当たり過ぎたんちゃうか」

「......なら、誰がその漁船を動かしたん」

「それが、分からんのよ。謎よ、謎。相馬組の連中も、いなくなった者はおらんって話やぞ。隣町から盗みにでも入られたか」

 わざわざ隣町の連中が、あんな目立つ船を盗むとは考えられなかった。一度海に出れば、すぐに見つかってしまうだろうし、また盗難の騒ぎが大きくなれば、流石に隣町の船着場にも、捜査の手は伸びるだろう。
 その時、ふと夏の教室から見た一艘の船の姿が脳裏に浮かんだ。夕立の中、穏やかな波を掻き分ける漁船。もしかすると、あれは相馬爺の船であったのかもしれない。しかしその姿形は既に記憶から抜け落ちている。不明瞭である。
 彼の話はだらだらと終わりない妄想の世界を漂い、ついにその全容を捉える事なく終わってしまった。同級の女子が、教室の隅にいる私の名を呼んだからだった。

 無言で渡されたのは、一通の手紙だった。誰かが私宛に書いた物らしい。裏を見れば、名前を記載した後に消しゴムで擦った跡が、しっかりと残っていた。
「なんじゃ、ラブレターなんぞ貰いよって」
 そう悪態付く友人を横に、この便りを開く訳にはいかなかった私であるが、ついには我慢出来なくなり、授業中にトイレへ駆けて、のり付けされた封筒を綺麗に破った。
 手紙には、『関一雄様』という文字と共に、『陽子』と短い差出人の名前が書かれていた。
まどろっこしい真似しやがって。
直接、話を持って来たらええのに。
 そんな思考も束の間、手紙の内容は、彼女が普段口にも出さないような言葉を書き連ねた物であり、私はそれを数回読み直した後、トイレを飛び出し、学校を抜け出して、向かうは漁船が止まる港の方角へ──。


『関一雄 様

 あたしは今日、部活に出ません。
数年前に父を亡くし、母の手一本でここまで大きくなったあたしは、この街を出る事すら叶いません。そして、愛すべき貴方は、遥か遠くの東京などという街に行こうとしてらっしゃる。その目を輝かせて、こちらに訴え掛けるさま。あまりに酷く、残酷な仕打ちだと思い......。
 もしどうしても旅立たれるというのなら、あたしにも考えがあります。あたしにも、意思というモノがあります。感情があります。海よりも深い、感情というものが── (続)

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