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【日吉屋 西堀 耕太郎社長インタビュー】外の視点をもつことで気づく日本文化の魅力

現在、京都市内に残る唯一の京和傘製造元「日吉屋」の当主・西堀耕太郎氏。「伝統は革新の連続 - Tradition is Continuing Innovation」を企業理念に掲げ、伝統的な和傘の継承と、和傘の技術と構造を活かした新商品を開発し海外市場を開拓していった。

そのなかで誕生した照明器具「古都里-KOTORI-」シリーズなどの新商品は、海外でも大きな反響を呼ぶ。2012年、日吉屋で培った経験とネットワークを活かして、日本の伝統工芸や中小企業の海外展開を支援するTCI研究所を設立。自社製品だけに留まらず、日本の伝統産業や工芸品を世界に向かって発信している。


この記事では、日吉屋・西堀社長のインタビューを通じて、具体的にこれまで取り組んでこられたことや「日本の伝統工芸を世界に届ける上で、大切にされていること」などについて伺うとともに、関西外大に2024年4月に開設する国際日本学科へのメッセージなどもいただいた。


日吉屋 西堀 耕太郎社長・プロフィール

profile
和歌山県新宮市出身。カナダ留学後に市役所で通訳をするも、結婚後に奥様の実家「日吉屋」で京和傘の魅力に目覚め、脱・公務員。職人の道へ。2004年五代目就任。伝統的な和傘づくりを継承するとともに、2008年より和風照明「古都里-KOTORI-」シリーズを中心に海外輸出を始め、現在(2023年)15カ国で商品を展開中。

異文化との交流を通じて「日本以外」に興味をもつ

西堀さんが「海外」を初めて意識したのは小学生のころ。地元・和歌山県新宮市に有名な合気道の道場があり、練習生の約半分が外国の方だった(泊まり込みの施設も併設され、県外からも多数の練習生が来ていた)。

西堀さんも道場に通い、練習を通じてさまざまな国籍の人たちと交流するなかで、自然と「日本以外の国」に興味をもつようになっていく。


―高校を卒業後に単身カナダに渡られますが、そうした子どものころからの体験も影響したのでしょうか?

西堀社長(以下、西堀):道場で海外の方と触れ合っていた体験は要因の一つですね、それとカナダのトロントに移住した伯母がいまして、毎年夏休みとかにいとこと一緒に帰省してくるんですけど、高校2年のときに「今後どうするの」みたいな話になったんですよ。

就職はまだしたくなかったし、当時は大学で特に何が勉強したいというのもなかったんですけど、トロントに住むいとこが大使館で働いていて、ワーキングホリデー制度っていうのがあるよって教えてくれて。それと、実家が英語塾をやっていまして、そういう意味では英語も身近な存在でした。


―カナダには何年行かれたんですか?

西堀:1年間です。トロント大学内の英語学校に通ったり、現地の日本食レストランでアルバイトをしたり、旅行をしたり。学校で友だちになったクロアチア人から「クロアチアには寿司屋が無い(当時)」と聞き、クロアチアで寿司屋をやるという目標もみつかりました。

あとは、現地では私自身や国のことについて聞かれる機会がすごく多く、日本について考えるきっかけになりました。

海外に出て、外の視点に出会うことで相対的に「日本」が浮かび上がる

「クロアチアで寿司屋をやる」という目標はみつかったが、当時はお金がなく、いったん日本に帰国。貯金をしようと、地元の新宮で公務員として就職をする。

アメリカのサンタクルーズと提携している姉妹都市事業の強化を目的に、英語が話せる職員の募集があり、採用されたのだった。


西堀:
経済観光課っていうところに配属されました。先輩方が情熱をもって業務に取り組んでおられて、仕事自体は面白かったですね。在職中に妻と知り合い、彼女の実家に遊びに行ったときに和傘に出会いました。

京都の老舗の和傘屋さんだったんですけど、当時の年間売上は167万円。廃業するって話で、それを聞いて私自身は「もったいな」と思ったんです。


―「もったいない」と思われたきっかけは?

西堀:普通に和傘を見て「かっこいいな」と感じたんですけど、たぶんそれはカナダに行ってたからだと思うんです。海外だと1つの国にいろいろな人種の方が住んでいることは、珍しくありません。日常生活のなかで他の文化や風習にも自然と触れることになります。だけど、日本は基本的には日本人が住んでいて、自分と同じ文化圏の人たちなので、自分が「日本人である」ってことを意識することはほとんどないと思うんですよ。

カナダに行ったら、「歌舞伎がどうだ」とか「茶道がどうだ」とかいろいろ聞かれたんですけど、答えられない。そのときに、自分は「日本人なのに、日本のことを知らない」っていうのを痛感しまして、帰国後は意識的に日本文化に触れるようにしていました。だから、日本のすばらしい伝統文化が目の前にあるのに、終わらせるのはもったいないと思ったんですね。


―なるほど。「継ぎたい」といったときの周りの反応はどうでしたか?

西堀:両家の親に反対され、妻も特に続けたいという感じではありませんでした。これは「海外に出て日本のよさに気づく」というのと同じ話で、京都の老舗で生まれたときから和傘がある人にとってはそれが当たり前で、珍しくもないんですね。また、当時は売上もありませんでしたから、まして積極的に事業を続けようと思わないという感じで。

廃業寸前の和傘製造元をインターネットを活用して立て直す!?

同じころ、所属していた市役所の経済観光課で、インターネットを観光に活かす取り組みをしていた西堀さんは、これを和傘の宣伝に使えないかと考える。

そして、実際に日吉屋のホームページを立ち上げた。


西堀:1996年のことで、当時は和傘のサイトとかもほとんどない状態でした。少しでもお店の宣伝になればと思ってホームページを作ったわけですが、オープンしてひと月くらいで、東京で踊りをされている方から「和傘がほしいんですけど」とメールでお問い合わせをいただいたんですよ。

当時はまだECサイトとかはない時代ですが、その後、ネットを使う人口が増えるに伴って、売り上げも増えていきました。通販で購入いただくだけではなく、サイトを見てお店に足を運んでくださったり、取材にお越しいただいたり、そういったことがいろいろと起こって、最初の2、3年間の変化は急激でしたね。



―そのなかで手応えをつかまれ、市役所を退職し、日吉屋の仕事を始められた感じですか。

西堀:それもありますが、最初に妻の実家で番傘を見て「かっこいい」と思ったというのは事実で、私が「かっこいい」と感じたということは、私のような人間が世界中にはまだまだいるはずだと思いました。

あとはネットの確率論の話ですけれど、分母が増えれば増えるほど売り上げは伸びていきます。例えば、上京区全部集めても3万人しかいませんが、京都全体だと200万人、日本全国だと1憶2千万人とリーチを拡大していけば、購入率が1%と仮定しても「グローバル・ニッチ」みたいなことは成立するんじゃないかなと考えました。


―実際にやってみると、売り上げが伸びていったわけですね。

西堀:はい。ただ、右肩上がりだった売り上げが3年くらいで頭打ちになりました。基本的に和傘は一生モノなので、リピートして購入されることがほとんどないんですよ。「着物のお供として活用される和装小物」としてある程度行きわたってしまうと、それ以上の需要は増えません。

ですので、着物とは切り離したところで、和傘以外の価値を見出さないといけないと思いました。そこで試行錯誤し、誕生したのが、照明器具の「古都里-KOTORI-」です。

(第二話につづく)

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