NHKで「あまちゃん」が再放送してるので「甘ちゃん」という言葉の意味を調べてみた
NHKの連続テレビ小説・第88作目として2013年(平成25年度)上半期に放送された「あまちゃん」。放送10年を迎えた今年(2023年)、BSプレミアムなどで再放送され、人気が再熱しているようです。
そんなわけで、この記事では「あまちゃん」という言葉について考えてみました。
「あまちゃん」という言葉の意味について
さっそく辞書で言葉の意味に当たってみましょう。
実生活で、「君は甘ちゃんだな~」なんてことを言う機会はあまりないかもしれませんが、意味としては各辞書にあるように、「考え方の甘い人」のことを指す言葉になります。
なお、「明治以降の隠語解説文献や辞典、関係記事などをオリジナルのまま収録している」隠語辞典の解説を読むと、今とは若干「あまちゃん」の意味が違っていることが見てとれます。
(女に甘い男、のろま、ってのも「考え方の甘い人」というイメージとは多少のズレがあり、何より「シネマも見ず、スポーツもわからず、おしやれもしなければマルクス主義も知らず、ひたすら試験の点ばかりにキウキウしてガチガチ勉強ばかりしてゐるやうな人の様」って。笑)
「あまちゃん」の類語、言い換えについて
類語辞典を参照すると、
青二才
未熟者
若造
見習い
下手っぴ、下手っぴい
下手くそ
半人前
ひよっ子
小者
不調法者
はな垂れ、鼻垂らし
などの言葉が並んでいます。
「考え方が甘い」という意味のほか、「未熟者」「半人前」というように、特定の分野においてまだまだ一人前ではないという意味があることがわかります。
(特に朝の連続テレビ小説では、「主人公の成長」が一代記として描かれることが多いですが、その意味では「半人前」といった意味のある言葉をタイトルにもってくるのは理に適っているともいえそうです。実際に、類語にあがっている「ひよっこ」という作品もありましたね)
連続テレビ小説「あまちゃん」のタイトルの意味
上の引用の中にもありましたが、連続テレビ小説「あまちゃん」のタイトルはダブルミーニングになっています。
ドラマの主要なテーマのひとつでする海女さんの「あま」
考え方が甘っちょろい主人公(=甘ちゃん)が成長していく物語
ということですね。
「あまちゃん」から構造主義を思う
ドラマ「あまちゃん」は娯楽として普通に楽しめますが、脚本が非常によくできており、いわゆる構造主義的な仕組みが意図されているように思われます。
(「繰り返し」「土着」といった視点から、中上健司『枯木灘』、大江健三郎『万延元年のフットボール』の読後のような感銘を受けました。※個人の感想です)
このあたりを詳細に書くと長くなるので、「繰り返し」「変奏」という観点からいくつか事例だけ挙げておくと…
親子三代がアイドル(をめざす)。※主人公アキと母・春子だけと思わせつつ、後半で祖母の夏が元祖・北三陸のアイドルであることが語られる
影武者のテーマ(見ていない人にはネタばれになりますが、1984年にデビューしたアイドル・鈴鹿ひろ美(=音痴)の代わりに、春子がデビュー曲を吹き替える。北三陸の観光客相手の素潜りで、上手くウニが獲れないアキに代わって安部ちゃんがウニを獲る。また東京編でアキが所属したアイドルグループGMT47には、シャドウ(代役)という二軍チームがあり、アキはセンターの子のシャドウを務める。さらには、映画『潮騒のメモリー』がリバイバルされるに当たり、当初アキはヒロイン(=小野寺ちゃん)役の影武者(金づちの小野寺ちゃんの代わりに海に入るシーンを撮る)を水面下で打診される。プロデューサー・太巻は結果的に、母・春子のときと同様、娘のアキにも影武者をやらそうとし、口説き文句も「悪いようにしないから」と同じだった)
北三陸から東京に出る際の夏の行動(話の途中にワカメを獲りに行く態で海に行き、その実、北三陸鉄道の車両が見える浜辺で大漁旗を振り、エールを送る。いずれも、夏から春子(1984年)、アキ(2009年)に対する行動だが、春子の際は車掌の大吉に話しかけられ、夏の姿を見れなかった(見送りにも来なかったと、春子は一方的に恨む)。25年後、アキも車掌に話しかけられて見逃しそうになるが、アキは夏の姿をみとめる(25年前に春子ができなかったことをアキが達成していく。このテーマは、「アイドル」にもつながっていく)
アイドルをめざして東京に出た娘が地元に帰りたいと連絡するシーン(春子⇒夏=「なすて?」を連発され、冷たくあしらわれた結果、春子は東京に残る。アキ⇒春子=「まだダメよ。頑張りなさい」とたしなめる春子に、「なすて?」とアキが問い返す。そして春子は1989年当時の自分を思い出し、その際に「帰ってくんな」と突き返した母・夏の気持ちを感じる。春子に説得されたアキは母同様、東京に残る。
と書き出せば他にもいろいろあってキリがありませんが、ドラマの中で重要な位置を占める楽曲「潮騒のメモリー」を最終回間近、復興支援として北三陸にリサイタルにやってきた鈴鹿ひろ美が歌うシーンで、ドラマの複数のテーマが回収されるというか、構造的なつながりをみごとに結実させます。
「潮騒のメモリー」の最後の方の歌詞である、
こちらのフレーズを、鈴鹿ひろ美は以下に変えて歌います。
マーメイドは当然「海女」のイメージで、夏、春子、アキと続く3代を捉え、最後の言葉も「親譲り」と言い換えます。
さらに付け加えると、「音痴」だった鈴鹿ひろ美はリサイタルまでに猛レッスンをしますが、万が一のときにそなえ、音楽プロデューサー・太巻は「影武者=春子」を用意。いよいよ鈴鹿ひろ美が歌い出そうとしたそのとき、会場に春子(見た目は1984年の春子)が駆け込み、太巻からマイクを受け取ります。
しかし、春子が躓いた拍子にマイクから電池が飛び出し、万事休すと思ったそのとき、今までからは考えられない美声で、鈴鹿ひろ美が「潮騒のメモリー」を歌い出します。
そして、アキの声で「その少女の姿は、それっきりもう、見えなくなりました」とナレーションが入り、時々アキの前に表れていた「1984年の春子」の亡霊は消えます(春子のことをずっと慕っている大吉のカラオケの十八番が「ゴーストバスターズ」だったのも繋がっているかも)。
つまり、春子は「影武者」の呪縛から解放され、いま現在そこにいる天野春子として再生する。そして、「自分の声」で歌った鈴鹿ひろ美も再生し、その彼女の声によって、被災した北三陸の人たちが復興をめざし、「希望」を再生する。そんなふうに読めるシーンでした。
さいごに
ドラマ「あまちゃん」は面白いので、機会があれば観てみてください。
「甘ちゃん」という言葉に関しては、明治・大正くらいのころは今と多少違ったニュアンスで使われていたことくらいしか目新しい情報はありませんでしたし、別に無理に使う必要もありませんんが、機会があれば試しに使ってみてください。
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