映画「サイドバイサイド 隣にいる人」を見て
充満する余白
1か月前に公開された映画、同監督の「ひとりぼっちじゃない」以上に、余白がとんでもなく多い映画だった。明確にスッキリしたいとか、テンポの速い映画が好みの方にとっては、ゆっくりと時間が流れるこの映画はしんどいかもしれない。
いきなり否定のような感触から入ってしまったので先に言っておくと、私はとても好きな映画だった。美しい風景と静かな時間、こちらに答えを委ねる余白も、一切説明しないところも。
そしてこの「説明しない」は、映画の作り方のことだけではなく、物語のテーマにも沿っているように思う。
どうしてここにいるのか、どんな過去があるのか、これからどうするのか、あの人は誰で、この関係の名前は…と、普通なら確かめたくなることを、主人公の未山も、恋人の詩織もその娘の美々も、誰も何も聞かないのだ。説明を求めない、させないことで、流れ着いた未山の生きる領域をさりげなく確保しているようだった。
愛することは、許すこと
未山と詩織と美々の穏やかな暮らしの前に、突然現れた未山の昔の恋人 莉子。こう書くと一見、恋愛映画のようだが、この映画は恋愛映画ではない。では何なのかというと、人間の弱さと強さ、再生の物語だったように思う。見終わったとき私の心に残ったのは、謎解きへの衝動ではなく「愛するとは」という、ひとつの答えだった。
平和を乱すかのように突然登場する莉子は、どう見ても様子が普通ではなかった。目に生気がなく暗い顔をして、体には未山と揃いのタトゥーが入っている。蔵のような未山の家の二階に、まるで隠れるみたいに「居候」していて、しかも妊娠中だった。未山は、戸惑う詩織に「もう詩織の家には行けない」「落ち着いたら話したい」と言うだけで、詳しいことは何も説明することができない。
…ありえない。修羅場だ。
しかし詩織は未山を責めず、説明を求めるでもなく、ふたりでうちに来れば?と、不可解な状況ごと2人を受け入れてしまう。
なんという強さだろう…同じ女性として、いや人として感服してしまった。出来そうで出来ない、ではなくて出来なさそうで出来ないことだ。見えないはずのものが見える未山の特殊能力より、詩織の愛のほうがよっぽど尋常じゃなかった。
そもそも、未山のように掴みどころのない男と一緒にいること自体、すごいことなのかもしれなかった。彼はいつも穏やかで優しいけれど、どうにも体の中に核が入っていないような印象があった。
ほったらかしにしてきた過去と向き合えないまま、優しい風景の中で時間稼ぎをしているような人生だったからだろう。けれど詩織はそれすらも問い質さず、発破をかけたりもしなかった。
その詩織の逞しさ、優しさと美々の純真さが、詩織の家で暮らし始めた二人の傷をゆるやかに癒していくのだが、そのさまを見ていて私は「The Rose」という曲を思い出していた。アメリカの女優で歌手、ベット・ミドラーの名曲で、こんなことを歌っている曲だ。
ある人は言う、愛は河のようだと
ある人は言う、愛は刃のようだと
ある人は言う、愛は飢えのようだと
私は思う、愛は花のようだと
「あなたにとって愛するとは?」と聞かれることはそうそうないが、もし答えるなら私の場合、愛することは許すことだと思っている。
人は皆不完全で、罪も傷も嘘もあるし、必ずどこか歪んでいる。その歪みごと許してくれる愛があったら、きっとその愛は人を強くしてくれるだろうと思う。「サイドバイサイド」を見終えて私の中に残った感想は、まさにこれだった。さまよえる未山と莉子を丸ごと包み込んだ詩織の愛は、赦しであり許しだったように思えた。私にとってこの物語で重要だったのは、未山の能力でも過去でもなく、詩織の愛の在り方だった。
消えた気配、消えない想い
詩織の豊かな愛に包まれて、ひどく病んでいた莉子は徐々に再生していく。未山も自分の過去に少しずつ向き合えるようになっていく。そうして治癒、再生が進んでいった先で、物語は思いもよらないラストを迎えた。
迷子の牛に引っ張られて山の中に入っていった未山がどうなったのか、決定的な場面は一つも描かれていない。けれどやはり、そういうことなんだろうと思う。
スクリーンには、未山のいない食卓が映る。詩織が未山に相談していた、食卓を照らす理想の明かりを手に入れた場面なのに、そこに未山はいない。未山の気配が消えていることで、時間の経過と不在を知らせていた。
直後、シンクで食器を洗いながら詩織たちを見つめる未山が映りはするが、彼は声を発しない。誰も話しかけない。まるでそこに存在していないかのようだった。少しして、美々がこう言う。
「あーあ、さっきまで未山くん居たのにな」と、シンクのほうを眺めながら。美々は人に見えないものを見る子だ。未山は、もうこの世にはいないのだろう。何かを訴えるような念のこもった視線ではなく、慈しむような未山の眼差しを見て、私はそう思った。
許しながら生きてゆく
映画「ひとりぼっちじゃない」で、コミュニケーションが苦手な主人公ススメは言いたいことを飲み込み続けていた。思ったことを言えていたら、聞きたいことを聞けていたらこうはならなかったのにと、言葉で伝え合うことの大切さを知るような映画だった。
けれど「サイドバイサイド」は、言葉に頼らない愛が描かれている。矛盾しているのにどちらにも深く共感できるのは、人間がそもそも矛盾している生き物だからかもしれない。
そのススメだが、今作にも実は少しだけ登場している。「ひとりぼっちじゃない」で苦悩していたススメとは少しだけ様子が違って見えるのは、「その後」のススメだからなのだろうか。
「ひとりぼっちじゃない」では、襟のついたシャツの裾をズボンに入れて、黒い小さなリュックを窮屈そうに背負っていたススメが、生成りのゆるやかな服をまとっていた。そして「いいところですね」と自分から未山に声をかける。ここにしばらく滞在してみようかなと語ったススメは、きっと未山のようにゆっくりと、あの土地で再生していくのだろう。かつて未山がそうしていたように、蔵のような家の窓から外を見ている背中のシルエットが、それを物語っているような気がした。
やはりこの映画は再生の物語だ。
人を、自分を許すことで再生していく愛の物語。