詩 虚数時間について(2018年)
宇宙の始まりは無であり、
その無の宇宙は量子トンネル効果によって、
虚数時間の世界からこの実時間の世界に現象し、
無は真空となり、
真空はその無秩序性によってエネルギーを持ち、
それによって空間そのものを斥力となって押し広げていき、
そうすることによって宇宙の温度は急激に下がり、
余ったエネルギーは熱放射となって拡散する、
それによってビッグバンが起きる、
という説を読んだ。
量子トンネル効果というのは、ある素粒子が、ごくまれに本来すりぬけることのできない空間をすりぬけてしまう効果だと読んだ。
真空においては粒子と反粒子が対生成と対消滅を繰り返しているから
実は何もないわけではない、といい、
実時間が過去から未来にただ一方向に流れていくのとは違って、
未来から過去にも、また過去から未来を東西とするのなら、
北側と南側へも流れることができるような、
そういう時間を虚数時間とよぶのだと読んだ。
よくわからない部分が多いにしろ、
もし虚数時間というのが実際にあるとしたら
それは何だろうかと考えた。
虚数が、
計算を便利にするために思いつかれた想像的な概念だとするなら、
それは時空間としてあり得た可能性の束、
仮想的で想像的な時空間だろうか。
いや、想像する前に、あらかじめからできごとのすべての可能性を含んでいるような、逆に言えば人の想像不可能なものさえ含むような、
すべてなのかもしれない。
だからこの虚数時間という考え方は、
人の出会える現実の限界性や、
人の思考の限界性の鏡像にも思える。
わたしたちは虚数時間の有無を確認できないのだから。
「存在する」ということの前提条件の中に、
確認できることが含まれるなら、
虚数時間は現実に存在しえない。
ただ、実時間とは別に、
わたしたちは過去をさかのぼることができ、
実時間の決定的な性格をかっこにいれて、
無限に別の時間の可能性を考え、想像することができる。
そういうことなのだろうか。
わたしたちはすでに決定された出来事、
科学や身体で確認できるような出来事と、
不確定的で確認することが不可能な領域に住んでいる。
科学が技術によって延長され、
社会によって集団化され、また様々な規則によって、
形式化され、
再構成された身体的なデータの
時間的な組織化によって生まれるのなら、
その確実さは、
人という種族の、歴史的文化的技術的に規定された身体によって、
担保され、方向性を持たされた確実さでしかない。
もしも細菌類や昆虫や爬虫類が、
何百万年もかけた進化の末に人間なみに知性化したら、
彼らの科学は彼らの身体が彼らの脳に与える身体的なデータや、
彼らの生存のために必要な技術のありようや、
文化や集団性のあり方の違いによって、
彼らの生存環境の違いによって
わたしたちの科学とは似ても似つかないものになるだろう。
それは別の恒星系に住んでいるかもしれない別の生命体にも言えるだろう。
種族の種族性はその科学や技術や文化の家であり、
科学や技術や文化はその家に寄生する。
その種族の発展に合わせて自己増殖して複雑化していく。
たとえば
科学技術の発達によって生み出されたAIが、
最終的に人類よりも高度に発達し、人類を最終的に駆逐しうるなら、
それは細菌や昆虫や爬虫類や別の惑星生命体が作り出したAI が、
その創造主よりも発達し創造主を駆逐することもありうるだろうが、
しかしそれは人類起源のAIとは違う性質を持っている可能性が高いだろう。
別の種族起源のAIたちは混交するだろうか?
彼らの違いは
量子コンピュータとノイマン型コンピュータと生体コンピュータの間の違いよりも大きいだろうか。
彼らは別の物理学や工学や哲学を生み出すだろうか。
彼らは、あるいは彼らの遠い末裔は、
数十億か数百憶年先に訪れるかもしれない、
宇宙の終わりに立ち会うだろうか?
できることなら、
わたしもその場所に立ち会いたいと思う。
宇宙が虚数時間の世界から現れたのなら、
宇宙は虚数時間の世界に還るのかもしれない。
だが宇宙自身の死というのは、
わたしたち自身の死にも似ている。
虚数時間というのはその言い換えだろうか。
わたしたちはどのみち、
死んだらこの場所から、
確認しようがない場所にいく。
だが確認とはなんだろう、
確認とは、
わたしたち自身の、
脳も含めた身体において、
うなづくという以上のものなのだろうか。
わたしたちがうなづいてきたものたちの
歴史的な一貫性において。
虚数時間は可能世界の無限の可能性の
集合をも含んだ無限の集合でもありうる
そして同時に無でもありうる
それは、人が自分の死について想像することによく似ている
時間が過去から未来に流れていくのは、
宇宙の膨張性と、熱力学第二法則と、
人間の記憶のありかた―未来に向けて、過去を忘れていくありかた
によって規定されている。
虚数時間的な世界があれば、
わたしたちはあきらかにわたしたちとして存在はできない
だが本当にそれがあるのなら、
そこでは記憶は巻き戻される、
滅びたものがよみがえる、
宇宙は収縮する、
生まれた時が一番年老いていて、
死ぬ時は一番若くなる。
わたしは胎児になって受精卵になる。
そしたらわたしは精子と卵子に分裂するだろうか?
いや、
記憶は同時に別のように巻き戻されて再生されて、
別のように滅びてはよみがえって、
別のように収縮しては膨張するのかもしれない、
かつてそうだったのとはまた別の胎児になるのかもしれない。
だがそれも、
わたしたちの思考のあり方を、
鏡みたいに反映させているともいえる
しかもそれは、
いろいろな方向に屈折させた鏡でもある。
わたしたちは、思考を鏡のように映しだしてそれにうなづく。
(鏡にうなづくのが苦手なわたしは自分の思考にうなづくのも苦手だ)
マイナスというのは鏡に映った姿に似ている、
虚数も、虚数の空間も。
何が鏡を作るのだろう。
鏡とは一体、何なのだろう?
(2018年)
参考文献:
ホーキング宇宙を語る(S.ホーキング)
インフレーション宇宙論(佐藤勝彦)