ニート・オブ・ダイハード

非難したいのは、とりもなおさず母だった。
またダークフォースに飲まれそうになっていた。

きっかけは件の障害年金の申請で役所に行ったことだ。
とてもとても煩雑な申請書類を一ヶ月以上かけて集めたのだが、なお役所でなければそろわない書類が二、三足りないというので、数時間かかることを想定して早めに出かけた。
足りない書類のうち、所得証明書があった。わたしの住んでいる市では住民課が発行しているというので住民課に向かうと、「去年度までは所得の申告が済んでいるのですぐ発行できるが、今年度分の申告はまだされておらず、ここでは発行できない。市民税課に行って今年度分だけ申告すれば、同時に所得証明書も発行できる」と言われた。

市民税課で応対してくれた若い女性職員に向かって、まずわたしは「(今まで家族任せだったので)今年度の所得の申告が済んでいないことを知らず、給与明細を持ってきていない。当時の職場の体制がややこしく、給与と呼んでいいのかもあいまいである」ことを話した。そして「医療費支援の関係で正確な所得の値を書いた書類を役所に送った覚えがある。その値をここで調べるわけにいかないか?」と言ったが、部署が違うとつっぱねられた。
仕方なく「先の書類に書いた大まかな値を覚えているから、それで申告させてくれ」と言うと、「控除などを正確につけるためには、給与の値も正確でなければならない」と言い張る。わたしは腹が立って、「とにかく急いでいるから、今日発行してほしいので今日申告させてもらう」と言い切り、大まかな値を大まかに書いて所得申告をしたのだが、この女性は最後にこう訊いてきた。
「普通、申告から証明書の発行には一ヶ月ほどかかるんですが、これ、期限はいつですか?理由をつけないと上司に書類を通してもらえないので…」
死んでしまえと思った。てめえで考えてくれと怒鳴り散らしたいのを抑え、「一人暮らしで生活に困って障害年金の申請に来ているから、とにかく急いでいる」と話すと、「月末までってことにします?」とか言ってきたので「それで」と答え、なんとか最新の所得証明書を手に入れた。

いよいよ書類はそろい、国民年金課に向かった。ここでもまた三、四枚の書類を書き、(恐らく)スムーズに申請は終わったのだが、最後に申請の控えを手渡されながらこんな説明を受けた。
「なるべく三ヶ月以内に審査結果を通知できるよう努めているんですが、書類の不備や向こう(国民年金機構※)の疑問に思うところがあると、もう少し時間がかかることもあります。あと、審査に受かると通知書が届くんですが、振込みが始まるのは通知書が届いてから約50日後になります」
50日?
初耳に水だった。
預金の残額は15万(※2)を切っている。死ねと言うのか?
わたしはあらゆるものごとを呪った。毒親である母、こんなに切羽詰まるまでこの制度のことを教えてくれなかった主治医、協力すると言いながらまったくしてくれなかった母、金を貸してくれない母、それを代わりに頼む友人のいない自分、自分の食いぶちも満足に稼げない自分、こんなことになるまで時間と金の無駄遣いを続けた自分、そしてそんな自分を容赦なく殺そうとしている役人たち。

みんな、頭がおかしいのだと思った。
こういうとき決まって浮かぶ言葉だ。
あまりの傷心に涙さえ出ない24時間を過ごして、わたしはやっと火が点いたように泣いた。
ダークフォースはほんの少し遠ざかり、脳内にはろうそくほどの理性が灯った。そして気づいたことは、わたしのものごとの捉えかたがいまだに、多くが母の洗脳下にあるということだ。

これは、太宰メソッド(※3)だ。
以前、「こうして、思考は現実になる / パム・グラウト」を読んだ。この本の中で紹介されている、スピリチュアルな世界とのつながりを試すさまざまな実験の中に、「まっ黄色の車を見る、と念じるとその通りになる」というのがある。
この本を読んだのはもうだいぶ前だが、実はひとつ困ったことが起きている。
黄色い車が見つかってしょうがないのだ。地方の、そんなに交通量も(都会と比べれば)多くはないような車道で、何かにつけてまっ黄色の車が目につくようになってしまったのだ。いや、車道に限った話ではない。とにかく、出かければ黄色い車を見る。実験をするまでは「そんなにいるわけないやろ」とたかをくくっていたのに、まるで意識のチャンネルが変わってしまったようだ。
同じことが太宰メソッドにおちいった人の思考でも起きている。
苦しくて仕方ないとき、わたしたちは苦しみにチャンネルを合わせ、フォーカスしている。喜びからピントをそらし、現実を歪めて見ている。

誰にも愛してもらえないとき。
誰にも分かってもらえないとき。
誰にも認めてもらえないとき。
誰もが、みんながと嘆くとき、必ずそこには欺瞞がある。
ありえないなんてことはありえない。
誰にも愛してもらえないのではない。
いちばん愛してほしい人が愛してくれないから苦しいのだ。

わたしは、誰も信用できないと思った。
みんなに利用されていると思った。そうではない。
信用できないのは母だった。
わたしを「目下の人間だから」という理由で、わたしの意見をまるっきり無視して都合よく扱う母だった。
マンガ家になりたいと言ったら、通訳になりなさいと言われた。
太っていることを笑われるからいやなのに、親族の集まりに連れて行かれた。
接客業で働いているのに、テーマパークに行きたいという理由で連休中に休みを取れと言われた。
頭がおかしいのは母だった。
そしてその母に分身として育てられたわたし自身が、誰よりも信用できない頭のおかしい人物だった。

どうしようもなく行き詰まりを感じるときがあったら、それはフォーカスすべき対象を誤っているときかもしれない。
人物、場所、あるいは時間。
わたしは歴代の職場でさんざん気が利かないとののしられていたが、友人間では優しく思いやりのある人物として評価されたこともあった。
わたしたちは三次元を生きている。誰か、あるいは自分に見える側面がそのすべてではないのだ。
フォーカスを変えよう。気持ちが落ち着くまで喜びにピントを合わせ味わったら、少しずつ移動しよう。
苦しみにも喜びにもピントを合わせられる場所を探して。

最後に。
うちの母は解離性障害(※4)だか器質的障害だかで頭がおかしく、しょっちゅう記憶の改ざんを行う。
以前、母のきょうだいの前で、母から聞いた「母、いらない子として育てられた」エピソードをいくつか話したら、「そんなことあったっけ?」と驚かれた。
恐らく、事実でないことのほうが多いのだろう。しかし、事実と真実は違う。いちばん見失ってはいけないことは、母が傷つけられて育ったと感じていることだ。
ひどい母だが、かわいそうな母なのだ。かわいそうな母だが、母と暮らすと傷つくわたしがいるのも真実なのだ。
事実をクローズアップしすぎると、真実を見失う。わたしたちが事実にこだわるとき、たいていは自分にとっての真実を無視して他人にとっての真実に振り回されている。
どちらも省みるべきだが、どちらを優先すべきかははっきりしている。
わたしのための、わたしの人生なのだから。


注釈:
※→障害年金は国民年金機構という国の管轄に置かれている機構による制度であり、自治体の国民年金課とは担当内容が異なる。
※2→2015年7月22日当時の状態。8月17日現在、千円を切りました。
※3→太宰治の小説「人間失格」の中で、孤独にあえぐ主人公が自分を責める声が「みんなが、世間が」と背景を誇大していることを見抜いたことにちなんだ誇大妄想を表す現代語。この文章では対象の誇大を書いている。
※4→古典的な創作の題材である多重人格の症状を含む精神疾患の、現在用いられている病名。器質的障害との見分け方は「自分に都合の悪いことばかり改ざんしているか否か」だが、ベースになる判断基準がそもそも歪んでいる人なので他人にはもうどうしようもない。

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