感情的に居心地の良いロジックは、問題の原因分析を困難にさせることがある
私は製品開発に携わって20年になりますが、その中で数々の失敗を見てきました。
何か新しい物を創ろうとした場合、失敗はつきものです。むしろ失敗なしで、新しいことにチャレンジするのは不可能に近いのではないでしょうか。
よって、失敗する事自体は、当たり前のことだと考えており、その失敗から次にどう動くかということを常に考えています。
しかし、組織のなかでは、しばしば失敗は責任問題に発展します。
そして、責任問題へ発展した瞬間に、その問題が発生した本当の原因を見つけ出す事が困難になります。
それは「責任があるところに原因がある」と思い込んでしまうからです。そして、その範囲でしか問題点を見つけようとしません。
または、皆が「責任元に原因を押し付けたい」と思ってしまうからです。そして、酷い場合は問題の発生源がすり替わってしまうこともあります。
この問題点は、本当の原因を特定できない事です。そして、効果的でない対策を実施し、解決したと思ってしまいます。その後、その問題は最発生します。
これは、開発マネジメント問題、または技術的な問題だけではありません。この様な事象は様々な問題に当てはまります。
例をあげて考えてみます。
「ある日、私が徒歩で通勤中に交差点で信号待ちをしていました。その歩道に自動車が突っ込み、私が重症を負った」と仮定します。
この話を聞いた多くの人は、
「自動車が歩道に突っ込んだ。運転手に事故の責任がある。事故の原因は運転手だ。」
と思うことでしょう。
問題点は、「運転手に事故の責任がある」→「事故の原因は運転手だ」に変換される部分です。たしかに、これは「感情的に居心地の良いロジック」です。
しかし、本当に「事故の原因は運転手」だけでしょうか。
たしかに、信号待ちで立っていた私に事故の責任はありません。ただし、原因はあります。それは「私が歩道に立っていたこと」です。
何故なら、たとえ歩道に自動車が突っ込んだとしても、私がそこにいなければ、人身事故にはならなかったからです。
この様な考え方が重要なのは、次に同じ様な事故を防止するための実質的な対策検討につながるからです。
自動車の運転手が悪意を持って歩道に突っ込んだのではなければ、同じ様な事故は再度起こる可能性があります。つまり、運転手側だけの対策で完全に防止するのは難しいといえます。
しかし、「信号待ちの交差点の歩道に人が立っていること」にも原因があると考えると、歩行者側に対しても様々な対策案が出てきます。
どうしても、大きな問題が起こると、「誰に責任があったのか」を追求したくなります。しかし、エンジニアは感情を抜きにして、原因の可能性を全て分析する必要があります。そして、それに対して対策を打つ必要があります。これができない場合、同じ様な問題を引き起こします。
この様な考え方は、製品開発以外においても使えます。問題の本質を分析し対策するのに有効です。そして、この様な考えで物事を見ると、無理に後付けされたような原因が様々なところに溢れていることに気がつきます。
今抱えている問題の原因は、本当の原因か?
他にも原因はないのか?
それは、後付けされた原因ではないのか?
常に、自分自身が「感情的に居心地の良いロジックに騙されていないか」を注意しています。