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被災者が羨ましかった。
私を知らずにこの記事を読む人にむけて自己紹介をします。
菅原碧と申します。宮城県気仙沼市大島出身の20歳です。現在は山形県に住んでいます。
サムネイル画像は先月実家に帰った時、亀山から撮影したものです。
もうすぐ東日本大震災から10年が経ちます。あの日10歳だった私は、もう20歳になりました。人生のちょうど半分が“震災後”になってしまった。
震災後を過した10年のうちの半分くらい、あの日のことを夢だと思って生きてきた。そう思わないと3月11日に取り残されたままの私が壊れてしまう気がしたから。
10年の時が流れて私はきづいたら大人になっていた。
もうそろそろ10歳だった私を救ってあげられるのかもしれない。
子どもだった私がだれにも言えずに苦しかったことを10年たった今誰かに伝えたい。そう思ってキーボードを叩いています。
この記事は有料になっています。本当はお金よりたくさんの人に読んでもらう方がいいのかな、とも思いましたが、流し見する人が10人いるよりお金を払ってまで読んでくださる方がひとり居て、私の気持ちを見てくれたらいいなと思ったのであえて値段を設定させてもらっています。ご了承ください。
この記事はすごい長いです。拙い言語力故に言い回しが酷いところもありますが、私の心の内をストレートに書いています。
ご了承ください。
端的に私が直接受けた東日本大震災の被害は自宅の一階部分浸水(程度により全壊認定)と車が廃車になったのと飼っていた犬が1匹死んだ。それだけ。それだけ、らしい。
出来事を簡単に時系列で書くとすれば、当時小学四年生だった私は学校で被災し、そのまま20日間小学校の体育館で避難生活を送った。
その後、水道局に務めていた父を残して母と弟と3人、宮城県栗原市にある母の実家に同年12月まで身を寄せた。
年明けからまだリフォーム途中の自宅に戻った。
特筆することはこれくらいしかない。被災地に居たならこれくらいのことが起きた子どもは何千人もいるだろうな。
その生活の中で私が未だに誰にも言えずに閉まっておいた気持ちを吐き出させてください。
家が無くなった人、うらやましいな。
本当に家がなくなった人からすればぶっ殺したくなるような言葉でしょうね。
それでもこれが10歳だった私の本心でした。
私の自宅は幸い、全壊認定をうけたものの2階部分はほぼ無傷でした。
それでも一階部分は泥の渦が巻いてめちゃくちゃだった。買ったばっかりでまだローンが残っていたでかい冷蔵庫が浮いて天井を突いて壊したらしい。干しっぱなしだった洗濯物のパンツとキャミソールだけはうまくしゃぶしゃぶされたみたいでそのまんま残っていた。泥棒にはいられたらしく、二階の部屋から貯金箱、水に浸かったカバンのチャックは全て開けられてお年玉の中身だけが抜き取られていた。
震災から10日経ってやっと家に帰れた時、しょうがないから笑うしか無かった。「ママみて!こんなのがここにあるよ!」ってわらうしかなかった。
家に着いて母が言った。「おうちあってよかったね。」
海のすぐ側にある家だから無いものだと思って家に帰ったら案外大丈夫そうだったから普通に出た言葉なんだろうけど私には理解できなかった。何がよかったの?おうちめちゃくちゃになっちゃったんだよ。
私が生まれ育った家はなくて、家だったものがそこにあるだけだった。なにがよかった、だよ。
この時の気持ちがずっと喉に刺さった骨みたいだった。のちのちこの骨が喉を突破って声が出せなくなることになる。
2011年の4月から母の母校の学校に通った。転校生なので当たり前に質問攻めにあい、当たり前に実家の状況を語ったらみんな口を揃えて「よかったね」って言った。家残っててよかったね。誰も家族が死ななくてよかったね。よかったね。よかったね。
よかったねって言われる度になんで?の気持ちが積もった。
この「よかったね」が私の心に解離を生んだ。
自分は奇跡的に生き残った運のいい人だから、この震災のことを沢山人に伝えなきゃとおもって、たくさん震災に関連する絵を描いたり作文を書いたりした。
子どもなりに被災経験を反芻して作品として昇華することで自分の中で理解しようとしていたのかもしれない。
一方で地震も津波も全部夢だと思い込む私がいた。これは夢でいつか覚める長い長い夢を見ているんだとと思っていた。
大変不遇なことに転校先でひでえいじめに合い、中庭に閉じ込められたり給食にゴミを入れられたり、体操着を捨てられたりした。
当時転校までしなきゃ行けない理由は、家が中途半端に壊れたせいで仮設住宅に住めなかったからだと思っていた。
後々これは私が転校前の学校でも干されており、それを気にかけた教務主任のすすめだったと知った。
それでも当時の私に知る訳もなく、家が中途半端にあるせいで転校しなきゃいけなかったし、転校したら虐められた、と解釈した。
12月になって自宅に戻った後、クラス全員から意味不明なあだ名で呼ばれゴミ扱いされた。なんのオマケか知らないけど担任からも目の敵にされていた。
あまりにも現実がつらすぎてこれは夢だ。夢だと思うしかなかったし、あれもこれも家があるせいで転校して、かえってきたら同級生みんなおかしくなっちゃったんだと思った。
そんなことは無いけど。私の記憶の中で美化されていただけで同級生は元から私の事なんか嫌いだった。今も昔も、現在進行形で。
ちょうど私が地元にいなかった期間は、震災復興復旧の熱が1番あった頃で、世界中のエールが届いた。芸能人がチャリティー公演に来たり、大学生ボランティアが毎日のように来ては遊んでくれたらしい。私の一つ下の後輩はその時の大学生だった人と今も仲良しらしい。
たくさんのNPOやらボランティア団体、大学生やらなんやらが来てとっても熱い思いをくれたらしい。
私にとっては全てにおいてらしいでしかない。居なかったから。
転校した私にお情けでくれたクラスメイトからの寄せ書きには、「きのうはもう中学生がきました」「今日は支援物資で○○がとどきました」しか書いてなかった。
単純にたくさんを貰っていたのが羨ましすぎて無理だった。
わたしが知らないところで被災地だった地元は裕福な気持ちになっていた。
私はいじめにあってこころが貧しかったのに。
この羨ましいな、の気持ちは今も強い。あの頃の学習支援に来てくれた大学生やNPOの方々がそのうち気仙沼に住むようになり、気仙沼のために活動するようになった頃、震災直後を懐かしんているのを見て羨ましかった。あの時小学生だった○○ちゃんがこんな立派に!なんてこと、言われてみたかった。そこには私みたいな新参者には割り込めない絆が見えた。
家がまるまる跡形もなく無くなった友達がいた。
まだ体育館にいた頃、その友達に
「今の体育館の暮らしと前の暮らし、どっちがいい?」
と聞いたことがあった。友達は少し悩んで
「お風呂とかトイレとかちゃんとしてるなら今の暮らしのほうがたのしいかな」って笑って言った。
もう家は無いのに。
今考えるともしかしたらその友達は以前の生活に戻れることは無いと理解して今の方がいいと答えたのかもしれない。けど当時の私には、そんなふうに思えてうらやましいなとしか思えなかった。
うらやましいな、うらやましいな。の気持ち。自分より辛い思いをした、ひとたちを、自分より過酷な地元で過ごした人たちをうらやましいなんて思うのはしては行けないことだと理解していたので、口になんて出さなかった。
出さなかったけどずっと思っていた。
うらやましいな。
いっそ私の家も無くなればよかったのに。
被災地が1番被災地から脱しようと努力する時に被災地に居らず、良かったねと言われる程度の被害だったらしい私は、“被災者”がうらやましくなった。
わたしもちゃんと被災者だったら辛い思いをした人達みたいに前を向いて明るく歩き出せるのかな。
いじめの最中考えていた。ひたすらに羨ましかった。
羨むことと、これは夢だと思い込むことだけが自己防衛だった。
うらやましいと思うことは悪だと思っていた。今も少し思う。
自分より辛い人をうらやむなんてどういうことだ。
そう思ってひた隠しにしてヘラヘラわらってきた10年だった。
今も時々、気仙沼市出身ですと自己紹介すると「震災は大丈夫だったの?」と聞かれる。決まって私は元気に「全然大丈夫じゃなかったです!」 と答える。大抵の人はそこでそうだったんだ〜なんかごめんね。と話を終えてくれるがたまに深入りしてくる人がいて、冒頭に述べたように私の境遇を語るとかならず「よかったね。」という。
何が良かったのか言ってみろよバーカ。
いいはずなんか無い。家がぶっ壊れて車もバコバコになって廃車にしたので数千万の負債ができた。家業だった養殖業もかなり縮小した。良くなんかないよ。大好きだった犬も死んだし。
10年たって少し大人になって、自分を客観視できるようになって改めて思う。家が無くなった人がうらやましかったんだ。
許されないことだとは理解しているけどそう思った。この事実だけは伝えたい。そんなことを思っていたガキがいたことだけでいいからつたえたかった。
これがわたしの東日本大震災です。
ただ単に津波と地震の物的被害だけじゃなく、わたしの心までぶっ壊していきました。
この10年間誰にも言えなかった。言ったら怒られると思ったし、そう思っている自分が嫌で本心に気付かないふりをしていた。
10年たってなんで急に言おうとしたのかと言うと、時効だとおもったからです。羨ましいなんて失礼なこと、多分だけど普通に言っちゃいけない。
でも色んなものが元通りになったりもとより進化していたりする今なら許されるかな〜って。
地震発生当時島の中でも内陸にあたる学校にいた私は津波を見ていない。波に飲まれる人も家もこの目で見ていない。見ていないからこそこれは酷い夢だと思っていたのかもしれない。
16歳になった頃、やっと現実を受け入れることが出来て、地元のために何かしようと動き出した。
色んなイベントに片っ端から参加したり語り部をしたり防災について研究したりした。東日本大震災から立ち直って寄り良い地元にするために走り回った高校生活だった。
被害を羨ましいと思い夢だと決めつけていた幼かった私は少しだけ大人になって、別の解釈をした。
東日本大震災、あって良かった!
これも他人からすれば何言ってんだお前?殺すぞ?と言われかねない最低な言葉と理解している。
理解はしているけど、そうとしか言いようがないと私は思う。
もう死んだ人は帰らないし、まちを元通りにするのは無理だからせめて、今前向きに頑張っているひとたちを肯定したい。
事実、東日本大震災をきっかけに世界中の人が日本のために涙を流してお金を出し、たくさんの支援をくれた。
被災地だった地元にはたくさんの人が集まってNPOや会社を作っていまも気仙沼をいいところにするための活動をしている。
東日本大震災をきっかけに、少なくとも私の見える範囲は前よりもずっとずっといい物になってる。
私は被災しなければ出来なかった体験をたくさんさせてもらった。
失ったものは多すぎるけど、得たものも決して少なくないと思う。
どうせもう時は戻らないし無くなったものは帰ってこないんだから、ただ嘆いてるくらいならから元気でも元気になった方がいい。
ある意味自己暗示も込めて私は東日本大震災があって良かったと思うようにしている。
小さい頃夢だと思い込まなければ耐えられなかったように、今の私も良かったと思い込まなければまた泣いてしまうのかもしれない。
この最低な解釈の仕方は自己防衛なのかもしれない。
自然災害は避けられるものでは無い。地球側のサイクルで決まりきっていることで、不定期開催のあくびみたいなものだと思っている。
これから先も地震も津波もくるし、台風も大雨も降る。
その度人は乗り越えていかなきゃ生きていけないから、せめて過去を肯定して、次を乗り越える糧にしたい。
東日本大震災から10年の今年、初めて気仙沼で過ごさない3月11日を迎える予定です。
引越し等多忙故の不本意ですが、これでいいのかもしれない。色んな思いが強すぎて海に身投げしちゃう気がするので、大人しく山形で黙祷をします。
どこにいても同じです。立ち止まる気持ちがあればいいんだと思う。
たかが10年、されど10年で、この10年で私は大人になりました。
2011年に置いてけぼりで泣いていた子どもの私が、ここに吐き出すことでやっと救われた気がします。
この記事は私に対する救いです。誰にも言えなかった、羨ましいというきもち。
否定してくれて構いません。messengerはいつでも開けているので罵倒のメッセージも甘んじて受け入れます。
ただただ救いが欲しくて吐き出しました。
せめて私くらいは過去の私を肯定してあげたいなとおもって公開しました。
ここまで長い長い拙い文を読んでいただきありがとうございました。お付き合い頂き本当に感謝しています。
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写真は2016年の自宅前で撮影したものです。今はもう防潮堤ができてみえなくなりました。