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「横浜らしさ」を追い求めて(2)ー天王町(横浜市保土ヶ谷区)

2008年1月19日

初めて相鉄に乗った日はよく覚えている。
その日はわたしにとって2度目となるセンター試験の受験当日で、1年前と変わらない試験結果を前に茫然自失となりつつも、一抹の希望を求め和田町駅から相鉄に乗り込んだことを。

1度目のセンター試験、すなわち現役の頃の会場は東京工業大学大岡山キャンパス(東京都大田区)だったが、それは在籍する高校の場所によって決まったと聞いたことがある(わたしが通う高校は大田区南部に位置していた)。そして、2度目の会場は、その時の住所によって、つまりは自宅から比較的近い場所に指定されたようだ。

「都落ち」という経験

当時は横浜市金沢区、京急線の金沢文庫駅から徒歩15分の場所に住んでいた。ここには高校2年の頃、両親の離婚というやむを得ない理由で、東京の目黒から引っ越しを強いられたこともあって、あまりいい思い出はない。

歴史的な意味とは比較にならないものの、わたしにとって「都落ち」という言葉は重い意味を持つものだ。いまでも時おり、この街の「定点観測」を行っているが、あのときの物理的にも、心理的にも「つながりが遠い」という閉塞感を思い出してか、それは若干の息苦しさを伴う。結果として、金沢文庫には10年余りの間、住むこととなったわけだが、東京に戻って7年半が経ったいま、あらためて「あの時間」の意味を問いなおしてみると、それは「この街、横浜を好きになろう」とした、言い換えれば「現状を肯定しよう」と試みた時間そのものであったように思う(そのことについては、次回以降に書きたい)。

試験会場までの道のり

2度目のセンター試験の会場は横浜国立大学常盤台キャンパスであった。受験票には、会場までの交通手段として次の2つの経路が書かれていたと記憶している。

 横浜市営地下鉄三ツ沢上町駅から西へ徒歩20分
 相鉄線和田町駅から東へ徒歩20分

あまりにざっくりとした案内に、多少なりとも不安を抱いたわたしは、検索の結果、比較的早く駅に到着する三ツ沢上町から会場に向かうこととした。このキャンパスは、もともとゴルフ場だった場所に作られたこともあって、起伏が相当に激しい。ひたすら登り坂を20分かけて歩いて辿り着いた場所は、まだ構内の入口に過ぎなかった。さらにここから教室までは、緩やかな登り坂を進んでいかなければならないのだ。なお、前回に紹介した相鉄・JR直通線の開通に伴って誕生した「羽沢横浜国大前駅」は、名称に「横浜国大」と付くものの、決して大学の近くに立地しているわけではない。3年前に歩いてみたが、キャンパスまでは15分ほどの時間を要する。もちろん、その道程の大半は登り坂だ。

相鉄との出会い

当時、わたしは2度目にもかかわらず、緊張感がまったくない受験生であった。それは文字どおり「浪人」といってよく、必死になって勉強に励むこともなければ、かといってお金もなく、毎日、ただ横浜の街をあてもなく放浪して終わる。そのような時間を1年近く過ごしてきたものだから、当然、2度目のセンター試験が終わっても、手ごたえは「1度目と何も変わらない」という感覚であった。もはや「生きる意義」すら問われかねない現実を前にしても、不思議なことに、趣味にこころ躍らせる余裕はあった。常々、自分のことを悲観的な人間と思っていたが、案外、楽観的な人間なのかもしれない。

会場からの帰りは下り坂。「現実逃避」に背中を押されるも、やはり傾斜が激しく、踏ん張らなければならない。だが、足取りはとても軽かった。帰りはまだ見ぬ鉄道「相鉄」に乗るため、行きと異なるルートで帰ろうと事前に決めていたからだ。そんな思いで和田町駅に向かったことを覚えている。

かくのごとく「相鉄との出会い」は生まれたのであったが、初めて見る相鉄の光景は、それまで東急や京急しか知らなかったわたしの鉄道体験からは考えることができないほど、すべてが新鮮に映った。駅や車両が異なることはもちろん、車窓から見える景色との出会い。これらは初めて意識的に鉄道文化の違いを感じた瞬間だったように思う。この発見は、わたしにひとつの望みを、つまり「生きる意義」を与えてくれたといっても過言ではない。

鉄道体験の余韻に浸りつつ横浜駅に到着したわたしは、ネットカフェに入って、さっそくセンター試験の解答速報を検索し、自己採点を行った。そして、突きつけられた合否判定を前に「この1年、何をやっていたのか」と、あらためて絶望したのであった(幸いなことに、その後の一般入試で、第2志望の大学に「合格最低点」で入学できたのだが)。

ここは大阪環状線の駅なのか

次に相鉄線に乗ったのは、前回、触れた12年前の年末年始だったと記憶している。鉄道体験に感動した割に、すぐに乗ることがなかったのは、やはり用事がない、つまり、この沿線に縁がなかったからであろう。多くの横浜市民にとって、相鉄は「近いようで遠い」鉄道会社なのである(ただし、沿線の二俣川には免許センターがあるため、多くは一度、相鉄に乗る機会がある)。

相鉄7000系

相鉄の横浜駅から、今はなき7000系に乗り込んだ。この車両は「相鉄らしさ」がふんだんに詰まった車両でもある。見た目でわかる旧世代感、このような車両が横浜の都心部を2019年まで走っていたとは、にわかに信じがたい。各駅停車に揺られて、平沼橋、西横浜と進んで3駅目、天王町駅に到着だ。それまでの2駅が横浜駅の徒歩圏内である一方、ここまでくると「横浜駅の引力」はずいぶんと弱まり、ある程度独立した形で生活圏が存在している。

天王町駅の案内板(2011年1月頃)
相州そば天王町駅店(2015年3月に閉店)

「ここは大阪環状線の駅なのか」、天王町駅に降り立った最初の印象である。おそらく頭の中には大阪環状線の鶴橋駅(大阪市天王寺区)が浮かんでいたのだと思う。薄汚れた駅の案内板、老朽化も甚だしい駅構内施設、そして、改札口のそばにある古びた「立ち食いそば屋」が、そのように感じさせてくれた。横浜からわずか3駅、タイムスリップを錯覚したわたしは、さっそく「相州そば」と書かれた暖簾をくぐり、かき揚げそばを注文した。なお、雰囲気を覚えている割には、味の記憶は乏しいので、これ以上は察していただきたい。

相州そばのかき揚げそば

ところで「相州そば」という店名から相鉄と関係があると思うかもしれないが、実際のところ、本店が(相鉄沿線から離れた)関内にあることからも、東急と「しぶそば」や、小田急と「箱根そば」のような直接の資本関係は両者にない。ただ、社の戦略なのか「相州そば」の多くは相鉄の沿線に立地している。

変貌した天王町駅

あれから12年、今回、再び降り立った天王町駅は大きく変わっていた。駅の案内板は落ち着きつつもスタイリッシュなものになっており、また、駅構内の外壁の一部はレンガ調で、どこか高級感が漂う。さらには、構内のいたるところに、相鉄のマスコットキャラクター「そうにゃん」が描かれており、否が応でも目に入る。そして、あの哀愁が漂う「相州そば」があった場所は、レンガ調の外壁によって「埋められるように」消えていた。どうやら2015年3月に閉店したそうだ。

天王町駅の案内板(2023年1月)
改札にいる「そうにゃん」
かつて「相州そば」があったと思われる場所

こうした天王町駅の変貌には理由がある。2017年、創立100周年を迎えた相鉄はJR、東急との直通運転開始を見据えて「相鉄デザインブランドアッププロジェクト」を始めた。「ブランドイメージと認知度向上」を目的としたこのプロジェクトに沿って、車両や駅、制服に至るまでリニューアルが図られている。デザインのコンセプトのひとつは「エレガント」、それまでのどこか田舎くさい「相鉄らしさ」からの脱却を明確に掲げたといえよう。しかしながら、それは発展途上なのか、もしくは貫徹できていないのだろうか、駅構内を出ると、案内板以外は、かつての「相鉄らしさ」が漂う無骨な佇まいで、少し安心した。

相鉄の「デザインアップ」は確実に続いてる

商店街と大型商業施設の奇妙な共存関係

天王町は横浜を代表する商店街と、区内最大の大型商業施設が共存する奇妙な光景を目にすることができる街だ。しばしば、ありふれた教科書において、商店街と大型商業施設は二項対立として語られることが多い。例えば、巨大資本を背景とした大型商業施設が上陸することで、それまであった商店街は質と量ともに劣っているとみなされ、シャッター街となり、やがては駆逐されるという構図である(往々にして、商店街が衰退する過程はノスタルジックに描かれる)。しかしながら、天王町においては、一定の共存共栄が成立しているように思う。それでは両者について見ていこう。

洪福寺松原商店街の生い立ち

「ハマのアメ横」洪福寺松原商店街

駅から歩いて5分ほど、八王子街道(国道16号線)を超えたところに、通称「ハマのアメ横」と呼ばれる洪福寺松原商店街がある。この西区から保土ヶ谷区にかけた200メートルほどの場所に、70以上の店が集まり形成される商店街は、横浜橋通商店街(横浜市南区)、六角橋商店街(横浜市神奈川区)と並び「横浜三大商店街」のひとつに数えられるほど、その存在感は大きい。確かに商店街を歩いていると、店主と客の距離が近いからか、様々な言葉が飛び交い、活気に溢れている。また「ここにしかない」という独自性を推し出した特色のある店舗も多い。こうした「市場(マーケット)」の感覚を体験できること、それが長い間、この場所が支持されている理由なのかもしれない。ちなみに正月に発表された「神奈川県商店街ランキング」では、1位を獲得するなど、昨今いわれる「商店街衰退論」とは無縁な商店街のようだ。

横浜市電路線図(1960年)

もともと洪福寺松原商店街は、洪福寺商栄会と松原安売り商店街の2つの商店街が合併してできたものである。洪福寺商栄会は、1950年頃、洪福寺周辺に形成されたカフェー、すなわち赤線地帯に足を運ぶ人たちを客層として成立・発展する。しかしながら、1958年の売春防止法の施行によって赤線が廃止となり、次いで1969年には、近くを走る横浜市電(「洪福寺駅」があった)が廃止され、徐々に賑わいを失うようになる。

他方、洪福寺商栄会の先、八王子街道を越えた先にあったのが松原安売り商店街である。こちらはもともと米軍によって接収された土地に、返還後、商店が集積することで、いわば自然発生的に商店街が形成された。その名が物語るように誕生当時から「安さ」を売りにしていたが、それは「ハマのアメ横」の由来にもなっている。そして、1960年、この2つが合併して洪福寺松原商店街が誕生した。先頭に「洪福寺」と名がつくものの、いまでは、旧洪福寺商栄会のあたりはほぼ壊滅状態であるため、現在の洪福寺松原商店街の大半は、旧松原安売り商店街といえよう。

イオンスタイル天王町の変遷をたどる

イオンスタイル天王町(2022年10月オープン)

「ハマのアメ横」から歩いておよそ5分、八王子街道に沿いに巨大なショッピングモールが見えてくる。「イオンスタイル天王町」である。この保土ヶ谷区内最大の売り場面積を誇る商業施設は、昨年の10月にオープンしたばかりだ。ただし、その歴史は長く、始まりは1977年の「ニチイ天王町」まで遡る。ところで、多くの人は「ニチイ」と聞いて、介護事業者最大手の「ニチイ学館」を思い浮かべるのではないだろうか。だが、ここでいう「ニチイ」はそうではない。かつて存在した大手スーパーの「ニチイ」のことである。ただ、いかんせん「ニチイ」は関西を拠点としていたことから、馴染みのある人は少ないだろう。しかし「サティ」、「ビブレ」、「マイカル」と聞くと、「おやっ」と思う人もいるかもしれない。これらの前身は、いずれも「ニチイ」であったのだ。

「ニチイ」という名称の由来は「日本衣料」から採ったいう説や、「日本はひとつ」というスローガンの短縮形など定まっていない。ちなみに、前述の「ニチイ学館」の名は「日本医療事務」に由来しているという。「ニチイ」は1963年の誕生後、食料品を中心に取り扱うスーパーマーケット(SM)として店舗数を拡大する。しかし、その後の小売業界は「大型化と多角化」を軸に発展していく。1970年代に入ると、小売業の主役はそれまでのスーパーマーケットから、食料品だけではなく衣料や家電、家具など日用品全般を取り扱う総合スーパー(GMS : General Merchandise Store)という業態が急速に拡大し、その座を奪うこととなった。

1984年「ニチイ」の総合スーパー版として誕生したのが、「サティ(SATY)」である。この名称は「Select Any Time for Yourself」の頭文字を採ったもので、そこには「どんなときでも、あなた自身のための選択ができる」という消費社会の理想ともいえる意味が込められている。1992年、それまでの「ニチイ天王町」は「サティ天王町」に改称した。また、順番は前後するも、触れておかなければならないのが、1982年に誕生したのが「ビブレ(VIVRE  : フランス語で「生きる・暮らす」を意味する)」である。これはファッション、とりわけ若者向けのそれに特化した業態であった。

マイカルのブランドロゴ

1988年、「ニチイ」は「マイカル宣言」を行い、のちのマイカルグループへと発展する(1996年には社名もマイカルへ変更)。「マイカル(MYCAL)」とは、「Young & Young Mind Casual Amenity Life」の頭文字「YMCAL」の先頭の2文字をひっくり返したことに由来する。「マイカル」は総合スーパー登場後も、さらなる「大型化と多角化」が進む小売業の時流に乗るため、大規模ショッピングモールの「マイカルタウン」の建設を進める。その第1号店が、当時、神奈川県内1位の売り場面積を誇った「マイカル本牧(横浜市中区)」である。本牧は長らく米軍の住宅施設が立地する「基地の街」だったが、1982年の返還後、広大な敷地の再開発を担った「マイカル」は、この地にアメリカ仕込みの超大型ショッピングモールを建設した(外観はなぜかスペイン風なのだが)。

しかしながら、バブル崩壊後、「マイカル」の業績は急降下する。なかでも「マイカル本牧」はその象徴とされ、建設のために400億円費やした割には、交通アクセスが悪く(本牧付近には鉄道駅がなく、交通手段は自家用車またはバスとなる)集客は伸び悩み、開業以来、多額の赤字を垂れ流していた。そこで「マイカル」は損失の穴埋めをするため、マルク建ての社債、すなわち外債を発行したり、また、店舗資産の証券化を進めるなど、いわゆる「財テク」を駆使するも、これが自らの首を絞めることとなった。2001年、「マイカル」は約1兆9000億円、前年に破綻した百貨店「そごう」を上回る「小売業としては戦後最大」の負債を抱えて、破綻するに至ったのである。

破綻後の「マイカル」は、再生に向けたスポンサーの選定をめぐって混乱に陥ったものの、かつてのライバルであった「イオン」がそれを担うこととなった。「イオン」は当初、「マイカル」や「サティ」といったブランドを残す方針でいたものの、その後はイオンブランドとの統一を図るようになる。さらに、2011年に「イオンリテール」は「マイカル」を買収。このとき「サティ天王町」は「イオン天王町」へと改称した。

最後の「マイカル」だった「ワーナーマイカルシネマズ」

かくのごとく「サティ」や「ビブレ」、「マイカルタウン」といったマイカルのブランドは、徐々に「イオン」化し、いまでは「ビブレ」を数店舗残すのみである。また「マイカル」の表記は、「イオン」買収後も、唯一、映画興行会社の「ワーナーマイカルシネマズ」に残っていたが、2013年に「イオンシネマズ」が吸収したことで、消滅することになった。

最後に

12年前に訪ねた「イオン天王町」は、完成から35年ほど経過していたこともあって、老朽化が顕著であった。その後、2020年に一度閉店し、建て替えのうえ、昨年の10月に「イオンスタイル天王町」として生まれ変わったのである。

ここまで綴ってきたように、天王町を歩くことは、日本の流通史を辿ることを意味するといっても過言ではない。商店街と大型商業施設の「奇妙な共存関係」は、単に新旧という枠に留まることのない緊張感に支えられているような気がしてならない。

実は「イオンスタイル天王町」まで来ると、隣の星川駅はもうすぐそこだ。次回はこの星川駅周辺について、書こうと思う。

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