自分を主張できる人が生きやすい世の中で、自分が何者かが分からない私たちはどう生きるのか📕 ぬいぐるみとしゃべるひとはやさしい🧸
ジェンダー小説とは知らず読んだ私。
私はこの本を、自分が何者であるかわからない人間の苦悩として読みました。
(話の大筋は全く違うところな気もするが、私がちょうど思い悩んでいたので寄ってしまった。反省。)
しかし、文字に起こしたくて仕方がなくなったので、感想を書いてみることにします。
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読書メーターで感想を漁ると、「令和に生きる若い人の気持ちを描いた本」と書かれていた。
私も令和の人間なのか、と思いつつ、令和が若者(七森たちを)をどうしてそうさせてしまうのかを考えた。
七森たちは『多様性』の世の中にうまく馴染めない人たちだと思う。(そしてこういう人はきっとものすごい人数いると思う。)
多様性が謳われたことで、人を表すときのラベルの量が増えた。
たとえば、男や女ではないアイデンティティの自分、世間の感覚とはズレている自分、ラベルを貼られることを嫌う人の居場所がある。
自身の特性を主張出来る人(世の中に存在するラベルが自身の一部に確かにある人、それを求めている人)にとって、その居場所や自身の属性に名前がついたことで多少生きやすい時代になったのかもしれない。
(それによって、個人ではなくラベルで見られてしまうではないか!という問題もあるが、逸れるのでやめておく。)
ただ、私はそこに混ざれなかった。
自分が何者であるか分からない、自身が何者であるかに興味のない人間の居場所はどこにある?
私は社会人になってから、わたしは自分が何者であるかを探すようになっていた。
この本は好きでこの映画は嫌い、この人のここが好き、ここが嫌い、とにかく沢山のモノに触れ、人と出会い、自分がどこにいけば居心地が良いのか、明確にしようとした。
その結果、「自分はこう言う人である」というラベルになるような代物は見つからなかった。
私は生物学上の女であること、といった自身から切り離せない色んな属性が内在していることが分かったくらいだった。
むしろ、自身の属性を知ろうとしたことで、他者と自己の界が付かなくなり、七森でいう、「痴漢をした男と生物学上の男性の自分は切り離せない」思考に陥りかける。
誰かを心の中で批判するたび、批判する自分にも相手と同じ要素を含んでいることに絶望し、相手への批判を自分にすり替えることで、誰かを批判した自分を殺す。ただ優しい世界にいたい。それだけの気持ちで自分のことを否定するクセがついてしまった。繊細なのか、逃げなのか、自分にもよくわからない。
「私は私である」、この当たり前の結論に行き着いた人たちはどれだけの苦悩も重ねたのだろうか。それとも、私は私であることを真っ直ぐに受容し、それ以外の要素を排除できる強さを持っている人なのだろうか。と羨ましく思った。
自分が何者であるかを主張できない、七森と私たちは、多様性の時代をどのように生きれば良いのだろうか。
…ぬいぐるみと喋れば良い?
誰かを批判したいわけじゃない、不幸にしたいわけじゃない、自分の言葉で誰かを傷つけたくない。
しかし、その“やさしい“言葉は、無に等しい。誰も傷つけない、誰も救えない、誰の心も動かさない。ぬいぐるみはシェルターであり、社会ではない。
ぬいぐるみは私たちを世間から守ってはくれない。
傷つくことを恐れたその先に待っているのは、歪んだ自己愛のような気がしてしまう。
やはり、人と触れて、時に傷つけてたり、傷つけられたりしながらも、「私は私である。」と心から思える日を待つことしかできないし、そうありたいと思う。
という、堂々巡りな思考で着地してしまった…。
これでいいのか…。
ただ、この本を読んで一つ救われたこともある。
私は、七森や自分を、「自己愛が強い人間」だと思っていた。
しかし、本の中や世間では、それを優しい、繊細だと表現するらしい。
堂々巡りで身動きの取れない私たちを、白城のような人間が見守ってくれている。
そう思わせてくれた、そう思っている人が(少なくともこの本の作者や読者の一部)が、この世に存在することが私たちにとっての救いである。