カイロスの戯れ
「チャンスの神様には前髪しか無い」という話を聞いたことがあるでしょうか?
この「チャンスの神様」の由来となったギリシャ神話の男性神が「カイロス」です。
彼の大きな特徴な長い前髪と禿げた後頭部。
私たちは、この神様の前髪に触れたいと、日頃から心の準備をしつつ、その時を待っています。
実は、ちょうど今、心象風景の話ではありますが、私はカイロスと対峙しています。
「(・_・;)…はい?」
いやいや、とうとう本格的に頭がおかしくなったと思うかもしれませんが、今回は、「チャンスの神様」について、私たちが重大な見落としをしているのではないか?という記事を書いていこうと思います。
なお、本記事は二部構成となっており、解説や細かな話は明日投稿します。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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※注意書き
今回は世界観も含めて、抽象的なニュアンスの話となります。
心象風景から現実世界を覗いているような、とっつきにくい表現もあるかと思いますが、あくまで感覚的に捉えていただけると助かりますm(__)m。
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私の計画は、実行前から破綻しかけていました。
見通しが甘かったと言えば、その通りではあったものの、期日が迫っている中で、計画を組み直すだけの要素が残っているのかすら分からなくなるほど、私は混乱していました。
それでも、進むべき道を進む以外に取るべき道はない、無理やりに気持ちをそう切り替えて、今できるコトに集中しました。
少しでも歩みを止めれば、不安に押し流されてしまう…。
「やれることをやっていくしかないんだ‼」
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そんな私が、フッと顔を上げると、目の前に此の世の者ざる存在が立っていました。
それは一般によく聞く「チャンスの神様」そのものの風貌でした。
「前髪を…捕まえなくては…」
辛うじて思考は止まってはいませんでしたが、突然のことで、意識と肉体が引き剝がされてしまったかのように、私は立ち尽くすしか出来ませんでした。
しかし、チャンスの神様もまた、一向に動く素振りを見せません。
震える唇を引き結び、なんとか絞りだすように、私は尋ねました。
「貴方は…チャンスの神様、カイロスなのですか?」
その存在の唇にあたる部分に動きは見られなかったモノの、ハッキリとした言葉のイメージが、脳内に響きました。
「我、真であり、偽である」
「真であり…偽…?」
どういうことなんだろう?
立ち去る素振りは見せないものの、再び口を開くこともしない、その存在から瞳を逸らすことなく、私は思考の海に沈んでいきました。
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真と偽の可能性
よくよく考えてみれば、私たちが想像している「チャンスの神様」の御姿には、特徴がありすぎると思いませんか?
前髪が長く後頭部が禿げている男性神、もしそのような存在が「真」であるなら、私たちはその存在に気づくのではないでしょうか?
にもかかわらず、私たちは誰一人「チャンスの神様」の風貌を実際には知りません。
これは、虚像なのでしょうか?
考えられるのは、「チャンスの神様に”風貌”という概念はない」ために、伝承を信じ、姿かたちが「この姿(特徴的な頭髪)である」と思い込んでしまっていることで、誰の目の前にも存在している「チャンスの神様」に気づいていない。
もしくは、「チャンスの神様に似たナニカの存在が私たちの目を曇らせている」可能性があり、前髪に飛びついた者が「チャンスの神様ではない存在」に翻弄されているということ。
…これは、さながら「篭絡の神様」なる存在なのかもしれません。
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思考はさらに深く…
では反対に、「チャンスの神様」が「偽」とは、どんな事が考えられるでしょう?
もっとも安直なのは、「チャンスの神様は存在しない」ということではないでしょうか?
しかし、この世の中には、人の力だけでは成立しない大きな流れがあることは否めないと思います。
だとするならば、「偽」とは一体何を指すのでしょう…。
…さきほどの「チャンスの神様に風貌という概念はない」という考えに近いが、もしかしたら、「視覚で捉えるモノではない」…?
「真であり、偽である…」
声にならない声で呟いてみる。
何か…何かあるのではないか…
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「チャンスの神様」とは単なる偶像崇拝なのか?
私たち人間は、集団のコミュニケーション能力で生存競争を生き抜いてきた種族です。
そして、言語を司る大脳の肥大化の進むさなかに、「信仰」という概念を獲得しました。
「信仰」は、種の意思統一に絶大な効果を発揮し、ときにそれは人間同士の争いの火種ともなりました。
「信仰」の対象物の多くは「偶像」であり、私たちの価値観の根源には、この「偶像崇拝」が刷り込まれているのかもしれません。
「チャンスの神様」も偶像崇拝に過ぎない…であるならば、「真」が成立しない…。
…いや、そうではないのです。
五感からも五官からも概念を解き放ってみれば、「真偽が交わる点」があるはずです。
信仰とは、 人やものごとを信用・信頼すること。 証拠抜きで確信を持つこと。またそれらを信じることを正当化する要因。
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「現段階」でのまとめ
思考の海から帰還すると、目で捉えていたはずの「此の世の者ざる存在」は、陽炎のようにゆったりと霧散していきました。
ですが、私には「居なくなった」ワケではないことが感じられます。
「真であり、偽である」とは、物質世界に外的因子として存在するのではなく、心象風景…精神世界の内的因子、つまりは常に私たちの存在とともに在るということです。
そして、私たちと別の存在という概念ではなく、「チャンスの神様」とは、私たちの信仰心により具象化する、私たちの一部なのだと思います。
つまりは、信仰するべきは偶像ではなく、実体の在る存在、私たち一人ひとりのことを指すのだと考えます。
「自分を信仰する=自信」
これが、時運や天運の力を借りて、人の力だけでは成立しない大きな流れとなるのではないでしょうか?
だとするならば、「チャンスの神様」とは存在ではなく概念であり、私たちの日々の弛まぬ研鑽が具象化したものであると思うのです。
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私の計画は破綻しかけました。
ですが、「チャンスの神様」あるいは「セレンディピティ」という表現が適しているでしょうか、予想だにしなかった偶発的事象により、好転しだしたのです。
ここには、時運や天運も介在しているのでしょうが、研鑽の姿勢があったからこそと、私は信じています。
信じることを正当化する要因、自分を信仰する力
私の心象風景に突然現れた「チャンスの神様」が教えてくれたことでした。
ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。