夢が叶った日の夜の青さ ~ロンドンにて~

夢を叶えることは同時に、夢を失うことだ。一つ夢が叶った日に、トラファルガー広場を通り抜けながらそれに気づいて、もうすぐ消える夢の灯火を胸に抱きながら、私は一人でこっそり泣いた。

ロンドンで『オペラ座の怪人』を見た。中学2年生の頃、25周年記念公演をDVDで見てから、ずっと憧れていた演目。いつか日本のアンドリューロイドウェバーになると、アンコールで舞台に出てきた彼を見て、和室のテレビの前で誓った。

留学生としてあり得ない程度に世界情勢に興味を持てなかったけれど、良い舞台を見たくて、学びたくて、9000キロを飛んだ。そうして、このくそ寒いロンドンで、11月19日、ヒズマジェスティ―シアターにて、『オペラ座の怪人』を見た。開幕と同時に泣くと思ったから、ひとりで行った。泣いた。あのアイコニックなテーマが流れて光るシャンデリアが劇場の天井へ向かって浮き上がった時、シャンデリアが昇っていくほどに、線みたいな涙が頬の上を何本も何本も落ちていった。なぜか奥歯を噛み締めて、何かを耐えていた。ガラスの美しい城が、何もない舞台の上に見えていたのは私だけだろうか。誰もいない舞台の上にだんだんと立ち上がっていく劇中劇ハンニバルのセットと上昇をやめないシャンデリア。ガラスの城は美しく少しずつ壊れて、最後には綺麗なモヤを残して、跡形もなく消えた。そうして、舞台は始まった。

DVDで見ていた時は毎回ラストシーンで泣いていたのに、幕開けのあとは、一度も涙は流れなかった。歌はあんなに上手いのにセリフになるとさっぱりな怪人役の絞り出す「クリスティーヌ」をやり過ごし、影を使った古典的な演出に客席から漏れる忍び笑いを聞いた。

衣装とセットはロンドンで見た舞台の中でも豪華で美しかった。初演から30年以上経った今でも洗練されているとも思う。それに、あの音楽!彼の音楽だけは、ずっとこの地で、あるいは世界で生き続けるだろう。
ただ、ここが、今一番ホットな場所ではないことは、曲がりなりにも演劇を学ぶ身からすれば明らかだった。特に照明と演出。音響のつくり方も若干物足りなかった。『ムーランルージュ』という今まさに大人気のショーを見に行った後だから余計に、なんだか古臭く感じてしまったのかもしれない。そう、『ムーランルージュ』では、客席もホットだった。多分日常的に観劇をしている人が見に来ているのだろう、盛り上がるのが上手で、拍手のタイミングも気持ち良い。とにかく景気が良い。けれどもオペラ座の、このパラパラした拍手はどうだ。
 
もはや観光地化したこの美しいプロセニアムステージに、ある個人の圧倒的な才能が作り出した天上の音楽が鳴り響いている。既存の超有名ポップスをアンソロジーにして、後付けで物語をのっける形式のミュージカルを最近多く見るけれど、この舞台のためだけに作られたアンドリューロイドウェバーの音楽は、それらに全然引けを取らない。ただ、この芝居のためだけに、それだけの素晴らしい音楽が捧げられていた時代の、多分ロンドンが今よりもっともっとホットだった時代の、残り香がした。

劇場をあとにして、地下鉄の駅へ向けて歩いていた時、ふと、また一つ夢が叶ったと思った。幼い頃から漠然と、「ロンドンに留学して、ミュージカルを見る」ことを夢見ていた。もちろん、ロンドンに来てから色々他のミュージカルは見ていたけれど、今日はついに本命にたどり着いたわけだ。そう思って、ふっと前をみた。地下鉄の駅までまっすぐ続くもう見慣れた道。街を侵食しない、輪郭のはっきりした現実的な青さの夜。あの角を曲がれば良いな。そう思った時、もはや、目の前に広が景色のどこにも、あの頃抱いた煌めく夢はないのだと気付いた。

何人の若者が夢見た土地にわたって、小さいなり大きいなりの夢を叶えて、そうして、ふと前を見ただろう。ひとたびそこにたどり着いてしまえば、はるか前方で光っていた標はもう、振り返らないと見えない。私はもう一度振り返って、まだ固まりきってはいない夢の溶岩のぬくもりに今一度触れた。そうしてまた前を見た。

この先の光る標は、私が建てる。どこからか光る星を捕まえて、ぽーんと遠くへ投げる。あるいは、星が落ちてくることがあるかもしれない。あるいは、青い夜の中をとにかく前へ走っていたら、突然足元にまだほのかにあたたかい星が落ちていたことに気付くかもしれない。けれども私は、もうすでにひとかけらの熱い石を右手に握っていることに気付いていた。誰かの夢の標になるのだ。そのような何かを、誰かが夢見るような土地を、生み出すのだ。ロイドウェバーが21歳日本人女性の半生を導いた夢を作ったように。世界に姿を現してからもう30年が経とうというのに、いまだに輝き人を導くような、そのような標。私を手の中の石のかけらはどんどん熱くなって、もう握っていられなかった。私はそれを遠くへぽーんと投げた。それは夜の空にきらりと光って、はるか前方へ消えた。


※現在、演劇を学びにロンドンに留学中の大学生の戯言です。オペラ座の怪人もムーランルージュもどちらも素晴らしく、名作であることに変わりません。

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