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「ことばする」とは・・・ ヤコブ・ベーメの場合〈下〉 (静寂者ジャンヌ 28)

先回の続きです……


5 「内側」はたえず「わたし」から逃げ去っていく


かつて あるがままの自然なことば が、あった

と、ヤコブ・ベーメが言う……

それは 生きたことば

ただの符号じゃない

神にならって ことばする

かつてそうやってわたしたちは

神の世界創造

参画していた

でも、いつしかわたしたちは

神にならって ことばする 

のを、やめてしまった

生きたことばを

失った

抜け殻の言葉

散りばめて

人間の言葉による 

世界構成という錯覚

支配 分断 狂信

バベル絵図

どうすれば、生きたことばを回復することができるのだろう?

本来の ことばする を、取り戻すことができるのだろう?

・・・これは、単にキリスト教徒にとっての物語ではないだろう。
〈神〉を別の神や神々に置き換えても、別の記号に置き換えても、あるいは削除しても、ベーメの提起する「生きたことばの回復」の課題は、この時代を生きる者に、どこまでも払い去りがたく、ついてまわるだろう。

南原実「ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元」を、読み進んで行こう…   (1)

南原実は、ヤコブ・ベーメの思想を通して、「ことば」と「わたし」の関係を考察する。

わたしたちは通常、「ことば」と「わたし」を切り離して捉えている。そう、指摘する・・・

私たちは、「ことば」とは、「わたし」とは切りはなされた別の対象としか思えず、そしてまた「ことば」と離れた別のところに「わたし」があると考えて、わたしはことばに「外側から」近づく。

例えば・・・

たとえば、蒙古語という日本語とは別のことばに、辞書や文法の助けをかりて外側から近づくように、幼児もまた日本語という未学習のことばに外側から近づき、「ことば」とはこうして「外側から」学習するものだと私たちは信じがちである。

しかし、そうやって「わたし」が 外側 から「ことば」に近づこうとしても、「ことば」や、ことばを通して対象化する「もの」の 内側 へとは決して入れない・・・

(a)一方に物理的な音声、あるいは、視覚パターン(文字など)、(b)他方にモノ、対象、イメージ、像、概念、意味、(c)そのあいだに両者を使ってことばする「わたし」を介在させるパターンは、ベーメとは無縁である。このようなパターンにしばられているかぎり、「わたし」は「外側」からものやことばに近づくことになり、その内側には入れない。「内側」はたえず「わたし」から逃げ去っていくのだから。

ここでは、(a)のうち、物理的な音声に絞ろう。

声を出す。

(a) 特定の物理的な音声を、母音や子音の組み合わせとして、発声する。

その(a)発声の型を、(b)ある特定のモノ、対象、イメージ、像、概念、意味と結びつける。

その(a)(b)の対応関係をルール化するのが、(c)「わたし」なわけだ。

このように、(a)と(b)に、(c)が外側から介在して、両者を結びつけるというパターン。 それが、わたしたちが一般に考える、人間の「言葉する」ことだ。

しかし、こうした「言葉する」アプローチを取るかぎり、「わたし」は「ことば」や、「ことば」を介して対象化した「もの」に、外側から近づくばかりで、その内側には入れない。

内側はたえず「わたし」から逃げ去っていくというのだ。

内側というのは、
生きた「もの」や、生きた「ことば」の、
その 生きているという急所・・・
そう、とりあえず解釈しよう。

なぜだろう?

なぜ、生きている に、ダイレクトに触れられないのだろう?

それは、(a)において呼吸し、喉を震わせ、口を動かして声を出しているのは、他ならぬ「わたし」の〈からだ〉なのに、その「わたし」を〈からだ〉から切り離してしまっているからではないか?

実際に声を出す 生身のわたし を度外視して、わたしを、単に思考する主体として外に置いてしまう。

でも、本来の生きたことばは、「わたし」という生身から切り離せないのでないか?

ちなみに(a)の 視覚パターン(文字)など についても同様のことが言える。書道がそのいい例だろう。筆を握る者の生身の運動と、その軌跡である書と、書かれた文字の意味とは切り離せない。



6 ことばする「わたし」の発見

南原実は、「ことば」と「わたし」について、さらに考察を進める。

「わたし」が「ことば」の外側にあるかぎり、いくらわたしが「ことば」を介して「わたし」自身を捉えようとしても、捉えられない。わたしは、「わたし」を対象として外側から語ることしかできない。ことばする「わたし」そのもの を、生きているままに、捉えることができない。ちょうど、わたしが、生きた「ことば」や「もの」の内側に入れないように・・・

わたしは、語る「わたし」にむかって、無限にことばを及ぼすことができる。わたしは、「わたし」について語れる。次には、「わたし」について語っている「わたし」について語れる、などと。このはてしのない前進は、まさにはてしなく前進できるために、言語行為をしている「わたし」そのものを捉えられない。「わたし」そのものは無限に後退していく。このはてしのない前進、そして後退は、外側から近づくことばの無力、そしてまたこうした言語観のあやまりを証明していると同時に、こうしたことばによっては捉えられない「わたし」の存在を証明している。(…) この「わたし」をこそ、ベーメは発見した。ことばによっては捉えられず、ことばをしている「わたし」を、ベーメは発見したのだった。

わたしは「わたし」について無限に語れる。
けれど、「わたし」そのものは無限に後退していく・・・

「ことば」を外側から捉える言語観の無力
そうした言語観による、「わたし」の自己疎外

生きたことばの回復とは、こうした自己疎外の構造から脱することに通じるだろう。

ヤコブ・ベーメは、そのことを熟知していたに違いない。

7 「わたし」の深層は、全宇宙、神にまでつながっている

さて、しかし、では、いったい、どうすれば、生きたことばを回復できるというのだろうか?

それには、ともあれ、まず、自分を呪縛している単なる符号機能としての言語観を、根底から壊すこと。そこからはじめなければ、おそらく、何事もはじまらないだろう・・・

そしてそれは、「ことば」における 「わたし」という生身復権からはじまるはずだ。

つまり、「わたし」と生身を、生身と「ことば」を、切り離さないこと。

あたりまえなことなのだけれど、わたしは、生身の<からだ>を通して、ことばする

どんな発声のパターンを声にするか、脳で選択し、そのシグナルを送る。
息を吸って、息を吐く。
喉を震わせる。
口を動かす。
舌を動かし、唇を動かす。

そうやって、声が、ことばになる。ことばが、声になる。

南原実は(ベーメを通して)、こう書く・・・

わたしがあることばを語るとき、aーーわたし自身の脳細胞や唇、舌、口蓋、のど、その他さまざまなからだの筋肉が動くと同時に、わたし全体のうちにひそむ力が活動し、いわゆる「わたし」という人間の臓腑、深層からことばが誕生している。

ことばが、「わたし」の臓腑を通って、深層から誕生する。

その深層は、はてしなく奥行きがある・・・

そしてそれは同時に、bーーそのとき、全宇宙の力がひびきあい、作用しあって、ことばが生まれてくるといわなければならない。あることばをわたしが発するとき、宇宙にみなぎる力が触発されて、動き出す。なぜなら、わたしの深層ははてしなく奥行があり、全宇宙、そればかりか神にまでつながっている。

わたしの深層は、全宇宙にまでつながっている!

ことばするとは
生身のわたしの奥に、全宇宙が響きあうこと・・・

このシンプルな実感を、いつしかわたしは、自分のなかで、遮断してしまったらしい。

幼いころ、言葉をはじめておぼえる時は、どうだったろう?

おぼえていない・・・


それでふと、思い浮かんだ。

子どものころ、ヘレン・ケラーの伝記というものを読んだ。どんな内容だったか、ほとんど覚えていないけれど、唯一、鮮明に印象に残ったシーンがある。視覚障害、聴覚障害のために、言葉を知らない子だったヘレンが、サリヴァン先生に連れられて、庭の井戸(だったか?)で、水を両手に受ける。そこで、はじめて「water」と、言葉を声に出すシーンだ。なにしろ遠い昔の子どもの頃の記憶だから、主観的に内容を受け止めていて、自伝の事実とは違うかもしれない。違うなら違っていてもいい。ともかく、そういうシーンを想像しよう。ヘレンになったつもりで・・・


ひんやりと気持ちのいい水が、手に弾け、流れる。

その新鮮な感触が、わたしの全身に波打つ

まるで眠りから覚めるように・・・

生き返るように・・・

というか、はじめて生まれたように・・・

からだ〉と〈こころ〉が奮い立つ。

その生身の奥底で、全宇宙が振動している。

とてつもないヴァイブレーションだ。

臓腑を共振させ、を震わせ、が響き、ことばが出る。

water・・・!

その時、たしかに、このひんやりと気持ちのいい流動が、waterとして生まれた・・・

水が創造される瞬間。

同時に、「water」の創造に立ち会った、この生身のわたしが、確かに、いる・・・

宇宙が誕生する・・・
が誕生する・・・
わたしが誕生する・・・

この瞬間に肉声で発せられた「water」という、いわば〈いのち〉の叫びは、明らかに、単なる符号としての役割を超えている。

こうした鮮烈な 宇宙とわたしの誕生 の実感は、誰しもが、はじめて言葉を習う時に、ごく素直に感受しているのではないだろうか? 意識の上では、覚えていなくても・・・

この実感を、再度よみがえらせることが、ベーメ流の、神のことばする をなぞる、その始まりだろう。



ちなみに、ここでちょっとジャンヌに話を戻せば、この全宇宙が響き合う深層は、ジャンヌの〈〉だとか〈〉、あるいは〈中心〉と通底する。

8 わたしのことばが、他者へ、はたらきかける

こうやって、ことばの一つ一つが、わたしから放たれるたびに、生身のわたしが誕生する。

それだけではない。

さらに、わたしから放たれたことばが、それを受け取る相手に、はたらきかける・・・

そして、さらに、cーーわたしの口にすることばは、他人のなかに潜みねむる力を触発し、動き出させる。ことばは、ひとりの人間のふかい根源からたちあらわれ、それがべつの人間の底にひそむ根源に働きかける。

ことばは「わたし」の深い根源から立ち現れて、他者の根源に働きかけ、動き出させる。

わたしあなた が、内側で、ダイレクトに触発しあいはたらきあう・・・

これこそ、本来のコミュニケーションのではないだろうか?

バベル後の、このわたしたちのディス・コミュニケーションの状態から、生きたコミュニケーションを取り戻す、その重要なヒントが、ここに示されているように思う。



ジャンヌの場合だったら、彼女の〈使徒的な生〉の境地に相当する。神の〈ことば〉が、空っぽの〈わたし〉を通して、他者にはたらきかける・・・「神秘のエクリチュール」もその一環だったことを思い出したい。


9 人間はいつかまた空飛ぶ鳥や・・・


しかし人間たちは、「ことば」を単なる符号としてしか理解しなくなった。そして「言葉」を通して、自分たちが世界を構成し、森羅万象を言語対象化して支配できる・・・そんな驕慢な錯覚を持つに至った。特に、知の探求者であるはずの学者たちが・・・

ことばが、唇の、舌の、さまざまな筋肉の、身ぶりの、脳細胞の、ありとあらゆる身体の部分の、精神の、人間全体の運動、そしてまた人間どうしの、宇宙の、神の運動であり、また宇宙全体のリズムであることを忘れてしまった学者たちーーかれらは、物理的な音声に対応する「対象」「もの」「イメージ」「像」「概念」「意味」などの亡霊のあいだをはてしなくさまよう。かれら自身、この宇宙全体の運動にささえられて、「対象」を語り、「意味」を語っているにもかかわらず……。

ここで、宇宙全体のリズムという表現に出会う。

生きた「ことば」について、端的にまとめた表現だろう。

このリズムに、ヴァージニア・ウルフの「言葉」よりはるかに深いところにあるリズムを思い起こしたとしても、牽強付会ではないだろう。

深層から波動となって立ち現れ、全宇宙に逆巻くリズム・・・



    ヤコブ・ベーメ     ~~~     南原実
       *              *
                            *                                                     *
  ヴァージニア・ウルフ
   ~~ ~~ アーシュラ・K. ル=グウィン


一見、関係のないかのような遠い二つの星群の四つの星。

線で繋げてみると、思いもよらぬ星座が浮かび上がってくるらしい。

ベーメは(南原実を通して)、つぶやく・・・

人間は、いつかまた空飛ぶ鳥や、ものいわぬ植物ともはなしができるようになるのだろうか。そして神ともまた……。それは、はるかかなたの遠い理想だろうか。いや、いま終末の時がきている。



「単純な人間」ベーメは、不純な付加物をとりはらい、汚染したことばを洗い清めて、生きたことばの回復めがけて研鑽する・・・

この世の終りが近づくいま、新しいことばへの道を発見したベーメは、神学者、哲学者、法律家、自然学者、錬金術師に対抗して書くことができるようになった。学者たちは書くこととは何であるか少しも理解することなく書いているとすれば(もちろん、かれらは書く対象についてはよく知っている)、ベーメは、書くこととは何であるのか、いうとはいったいどういうことなのか、を発見したのであるから。


10 カバラ的

こうした「ことば」観を通して、ベーメは例えば、「はじめに神は天と地とを作った AM ANFANG SCHUF GOTT HIMMEL UND ERDEN」(2)という旧約聖書『創世記』(先回、挙げておいた聖書協会共同訳を参照)の文を、こんなふうに解釈する・・・(長くなるので、最初の単語 AMとAN だけにしておこう)

「a ーー AM(アム)ということばは、心臓のなかで自分自身をつかみ、(生まれ)唇へと突きすすんでいく。そこで捉えられて、ひびきを立てながら、出てきたものと場へとまた戻っていく。
b ーー その解釈。ひびきは、神の心臓から出ていって、この世界の全域を包みこんだが、そのときそれが悪であるとわかったので、ひびきはまた自分の場へと戻ったのである。

「a ーー AN(アン)とは、心臓から口へと押し出し、そして長く余韻のきいたことば。発音されると、上あごの力によってその座の中央に閉じこもって、半分はそとで、半分は内部。
b ーー その解釈。神の心臓が堕落に吐き気をもよおし、堕落したものを自分の身から突き放したのである。しかし、それはふたたび捉えられて、心臓の中央にとめおかれる。舌がこのことばを半分に割って、半分はそと、半分は奥というぐあいに分けたように、神の心臓は、火のついたサルニタを少しも投げ捨てようとせず、むしろ悪魔の悪と欲こそが投げ捨てらるべきもの。そして、他の部分は、このあとでつくりなおされることとなる。

こうした解釈法は、ユダヤ神秘思想をもとにしたカバラ的伝統をひくものだという。



11  ことばの解放

最後に、ヤコブ・ベーメとジャンヌ・ギュイヨンの「ことば」観の共通性を整理してみよう。

① 二人は、神の「ことば」と人間の「言葉」とが断絶したという現状理解の上に立脚している。その上で、二人とも、人間の言葉と神のことばとの連続性の回復を、あくまでも可能なものとして捉えている。

ちなみにその際、興味深いことに、べーメは「母語」に注目する。当時、ヨーロッパの学者たちの使う「普遍的」な学知の言葉はラテン語だった。ベーメは、学者たちのラテン語ではなく、その土地の生活の言葉である母語(ベーメだったらドイツ語)に、「アダムの言葉」のおもかげを、その残り香を、嗅ぎ取った・・・

ベーメによると、土着語には原初の「アダムの言葉」のおもかげがのこっている。響きとイメージや意味が分離していない「自然の言葉」なのである。万人が母の口から学ぶ母語は、学校で学ぶ外国語や専門用語とは異なり、「アダムの言葉」に近い。言葉の響きやイメージに敏感であったベーメとは少々違う観点からではあるが、パラケルススや、ヘルモントなどパラケルスス派の医者たちも、医術を母語で記述することにこだわっていた。

中井章子 「キリスト教神秘主義著作集 第一六巻 近代の自然神秘主義 解説」 p611(教文館)

こうした言語観は、後述の②と相まって、何らかの「詩論」へと展開していくだろう。これからのテーマとして、とっておこう。

ジャンヌの場合は、ベーメのような理論は語らない。だが、彼女の「神秘のエクリチュール」は、神の「ことば」と人間の「言葉」との連続が前提になければ成り立たない。(3) それは、無分節な神の「ことば」が自己分節して、ジャンヌのペンを駆動し、「言葉」として記されるプロセスに他ならない。次回、触れたいと思う。

② もう一つ、二人に共通する特徴は、〈ことば〉における〈からだ〉の復権だろう。

ベーメにとって、ことばは、まず「わたし」という人間の臓腑、深層から誕生するものだ。

ジャンヌの場合では、彼女の「沈黙のコミュニケーション」において、それが集中的に発揮される。

ジャンヌの生身から、対面する弟子の生身へ、「ことば」がダイレクトに流れ込む。
ヴァイブレーション、全宇宙的共振の享楽だ。
このコミュニケーション、伝授法は、ジャンヌの核心だ。
近く触れたいと思う。

二人はそれぞれのやり方で、抜け殻の標本と化した人間の言語を、再び宇宙的なリズムとして解放しようとした。

ヤコブとジャンヌ。二人は全く違うタイプの神秘家だが、二人が試みた生きた「ことば」の回復、その解放は、わたしたちにとって極めてアクチュアルな課題だ。



(1) アドバイスをいただきまして、先回載せた南原実のプロフィールを、以下、修正しました・・・・

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南原実 (1930 - 2013) ドイツ文学 / 比較思想 / 東京大学名誉教授

著作:「ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元」(1976 牧神社)(1991 哲学書房)/ ロベルト・シンチンゲル、山本明、南原実共編「現代独和辞典」(三修社)/ ロベルト・シンチンゲル、山本明、南原実共編「現代和独辞典」(三修社) /「失われた神話への旅 ギリシア」(白水社)/「聖なる森への旅 ルーマニア」(白水社)/「未来を生きる君たちへ」(新思索社)/「極性と超越 ヤコブ・ベーメによる錬金術的思考」(新思索社)など。

レーチェル・カーソン「沈黙の春 生と死の妙薬」青樹簗一の名で翻訳(新潮文庫)、「クレーの日記」(新潮社)翻訳なども。

「キリスト教神秘主義著作集」(教文館) の第一二巻以降(第一七巻までの六巻)を監修。このうち「第一三巻 ヤコブ・ベーメ」は自身が翻訳。


(2) 当時のルター訳のドイツ語訳を引用したもの。(例えば LUTHERBIBEL 1545)   現在の 2017年版(LUTHERBIBEL REVIDIERT 2017)などは、ERDENがERDE に。

(3)「神秘のエクリチュール」の観点からすると、 実はベーメの「書く」方法も、ジャンヌとよく似た「受動的筆記」だったという。「何の参考書もメモも用いずに、飛ぶような勢いで文章を書いていった」という。また、「あたかも他人の著作であるかのように、推敲の手を入れようともしなかった」。「自我がからになればなるほど、神の力はベーメに働きかけ」、「ベーメ自身、『自分の著作は、神が大いなることを啓示した一つの奇跡』としか呼びようがなかった。」(岡部雄三「ヤコブ・ベーメと神智学の展開」岩波書店 p.49)

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