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「ここじゃない世界」という幻想を捨て「普通じゃない私」という仮面を外して

塩谷舞さんの初の書籍、『ここじゃない世界に行きたかった』を読んだ。

塩谷さんのことは、タイトルにもなっている「『ここじゃない世界』に行きたかった アイルランド紀行」というエッセイで知った。公開が2019年7月とのことなので、ちょうど1年半ほど前だ。誰かのリツイートで回ってきたこのエッセイを何となくタップして読み、その文章に心を鷲掴みにされ、以来すっかりファンになってしまったのだ。

(「アイルランド紀行」、著書に収録されているので紙の本で読むのも味わい深いのだけれど、milieuのサイトだと、まるでダブリンの街並みを歩いているかのような美しさを味わえる。ぜひそちらでも読んで欲しい)


そんな塩谷さんがエッセイ集を出されるとのことで、これは絶対に買うぞ! と告知された日から楽しみにしていた。無事に手元に届き、装丁や写真を楽しみながら噛み締めるように読んでいった。読み終わって、ああ、この感想は簡単には書けないし、じっくりわたしの中に落とし込むように、大切な場所に置いておきたいと思ったので、こうして筆を執っている。


内容に多少なりとも触れるので、これから新鮮な気持ちで読みたいという方は、ここで一度お別れしましょう。

レビューとも感想ともつかないけれど、敬意を表しながら。


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本作は、全部で4つの大きな章に分かれ、各章が6つ程度のエッセイで構成されている。

冒頭、「SNS時代の求愛方法」というエッセイに、塩谷さんが出会ったばかりの友人とのこんな会話の一幕がある。

「舞さんの文章、読みましたよ。まるで寡黙な人が書いたような文章で驚きました」
 彼女もまた、インターネットで私のことを調べていたらしく、こう感想を続けてきた。
「最初にお会いしたときは、とても明るい人だと感じたから。でも現実世界でちゃんと満たされている人であれば、ああいった陰のある文章を書かないじゃないですか」
 その感想に、心が高揚した。外面と内面の温度差に、すぐ気がついてくれたということは、私たちはきっと似たような人間なのだ。

ここを読んで、「あ、この本は、わたしにとって忘れられないものになる」と確信した。


20代の頭まで、自分自身のことや考えていることをほとんど書いてこなかった。いや、正確に言うならば、外向きでよそ行きの、みんなに認識されている通りのわたしのイメージを更に強固なものにすることばかりを書き連ね、言い続けた。本当に言いたかったこと、やってみたかったことにはずっと蓋をして。そのくせに、自由奔放に見えて、わたしが選べたかもしれない選択肢を謳歌している他人のことを勝手に羨んで、そんな自分に嫌気がさすところまでがワンセット。

典型的な、隣の芝は青いだ。どこか遠くに行きたい、何か新しい自分になりたい気持ちはあれど、自発的にそのエネルギーは湧いてこない臆病者だから、何か超常的な存在が連れていってくれることを密かに待っていた。


ここ数年で、大きなきっかけがあったわけではないけれど、自分の好きなものを好きだと言ったり、やりたかったことに挑戦したり、黒々として胸の内部にうずまくものを(誰かや何かを責めることなく)形にしたりといったことが、少しずつできるようになった。

優等生で真面目な仮面を付けて、廊下で誰にも見つからないように深呼吸をして教室に入るわたしや、廊下の隅っこに落ちているごみを見て見ぬふりをするわたしと、少しずつさよならしていった。


「現実世界でちゃんと満たされている人は陰のある文章を書かない」というキーワードが、最後まで強く残った。この言葉に、自身の内部にある陰を柔らかく照らされて、ふっと肩の荷が降りる人は、きっと少なくないのだと思う。


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塩谷さんが、noteをはじめ様々な媒体で書かれてきたものが蓄積されていき、今回こうして本という形に編まれたことで、いまの彼女の根幹を貫くものが浮かび上がってくるように感じた。


生い立ち、住まい、進路、性格、性別、文化に文脈……。普通であることに飽き飽きして、けれど普通になれない自分に嫌気がさして。そんな、文字面だけだと我が儘みたいだけれど、どんな人の心の中にもきっとある、「普通コンプレックス」みたいなものたち。

ここじゃない世界に行きたいのも、普通じゃない私になりたいのも、みんな同じだと思う。みんな考えて悩んでいるけれど、その過程は基本的に表に出てこないものだから、考え終わって結論を出せている(ように見えている)人の、完璧みたいな意見ばかりに触れる。もしくは、一生分かり合えないのではないかというような、対岸の意見に触れて、わたしはこれで良いのだっけ、と揺さぶられる。


この本は、塩谷さん自身が抱いていたのであろう、「ここじゃない世界」や「普通じゃない私」という幻想や仮面を、ページを進めるたびに確実に取り払いながら、自分の中の最も美しくて大切なところに価値判断の置いていく過程の物語だと思う。白黒はっきりつかないものを簡単にはっきりさせることをやめ、けれどその問いから逃げずに、そして読者であるわたしたちに対し驕らずに、一緒考えてくれる、まさしく「視点の異なる友人」でいてくれる。

ここに書かれていることは、全て塩谷さんの視点から見えたものであって、絶対の正解ではない。あくまで一意見。そして、直接問われてはないけれど、「私はこう思っている。じゃああなたはどう思うの?」というキャッチボールの合図が、行間に滲み出ている。


「元バズライターがエシカル消費や環境問題、アメリカ大統領選挙にまで言及した一冊」、表層をなぞればそのように宣伝できるのかもしれないが、本質は社会的な大きな問題に投げかけるということではないのだと思う。あくまでも、「わたしとあなたは違う視点を持っている」という最小単位の関係を大切にして、自身の立場を堂々と表明しながら対話に臨もうというのだ。


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青山ブックセンター本店でのトークイベントで、「なぜバズライターからエッセイを書くようになったのか」という質問に対し、こういった趣旨のことを答えられていた(書き留めていたメモなので、意訳であり、塩谷さんご本人の発言・趣旨と異なる可能性があります)。

バズライターもエッセイストも、どちらも社会の悩みに応えるものであると思っている。企業の(売り上げなど)の悩みを解決するバズライターから、個人の心の悩みに寄り添うエッセイストになった。
だから、私からしてみれば、何か真逆の立場になったというわけではない。それまでは企業がクライアントだったのが、他でもない私自身がクライアントに変わっていったのかもしれない。


帯に書かれている、ブレイディみかこさんによる推薦文にはこうある。

「バズライター」が自分を取り戻すために綴り続けた文章は、ゆっくりと静謐で美しかった。ここじゃない場所へ移動できないときにも、世界を閉ざさないためのしなやかな本がある。


わたしはバズライター時代の塩谷さんを知らず、エッセイストとしての面でその存在を知り、好きになった。読了してからこの推薦文に戻ってくると、まさに「自分を取り戻すために綴り続けた文章」なのだと感じる。

勝手な表現だが、塩谷さんご自身が、自分のことを茶化さずに、呪い(と簡単に言ってしまうのはナンセンスだが)を解いていく、そして取り戻した確固たる「自分」で、これからも歩いていかれるための羅針盤となる一冊なのではないかと、その決意の一端を垣間見るような思いだった。


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「素敵な靴はあなたを素敵な場所に連れていってくれる」という有名すぎるヨーロッパのことわざがある。本書を読み終えて、ふっと思い出した言葉だ。


これからは、新しい素敵な靴の代わりに、「自分の心の内側の声をよく聞き、自分の中にある美しさを信じること」それ自体が、わたしたちを新しい場所へ連れていってくれるのではないか。否、今いる場所から見える視点を新しくて美しいものにして、「ここじゃない世界」という幻想を打ち破ってくれるのではないか、と確信に似た願いを込めながら、丁寧にていねいに、本棚の特等席へと仕舞った。



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けんず
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