フォークとロック、言葉の激情、音の抒情。①
動き始めた 汽車の窓に 顔をつけて
君は何か 言おうとしている
老いた。『うたコン』がささやかな楽しみになってしまった。先週もどこか、夜。徳永英明さん他みんなで歌う『翼をください』からスタートして『なごり雪』。イルカさん、何度歌ってるだろうと毎回おもい、動き始めた汽車の窓~にぃ、のところで確実にグッと来てしまう。これも毎回(何度目だろう。もはや死ぬまで?)
『翼をください』を初めて聴いた日、こんなに良い曲があったんだ!と感動した。良い曲、感動。中学の頃はそれで足りた(ピュア!)
『ガンダーラ』や『異邦人』といったリアルタイムの良い曲とはまた別に、その前の知らないでいたフォークソングの良さ、美しさに感動するのが楽しみであり、喜びだった(でも一方で…)
中学1年の夏休み、遊んでるときみたく、ホームランを連発する、オレが上手くてたのしい野球に夢やぶれ、部活の練習にどうしても行きたくなかった一日、ユニフォームのまま家で弟と遊んでたところをわざわざ覗きに通って、そっから3年、終わるまで「サボりマン」と言われた。
会社も同じだった。休んで遊んでた、は、うしろ指さされ、た(もうオレじゃなく)サボり、サボる、は犯罪だった(また思い出しちゃった~)そういうの、わりと埋め込まれたままなんですよ。アップデート?できますよ(起きてるときは、ね)
歌謡曲、フォークソング、ポール・モーリア…なにも知らないコドモのなのに、子供時代の方が、良い曲や美しい音に敏感だったのは何故だろう?というオッサンと化してからの疑問は、オッサンと化した、そのせいだろう(ヤなことの数々、忘れてた。ノーピュア!)
そうして部活が終わり YMO にハマって、FM放送から録音したライブの、それも『東風』という曲を、カセットテープで繰り返し繰り返し、目を瞑って、聴いていた(それは長い期間に渡り、成人してからも続いてた)
音楽、これを聴こうと選んだり、かけたり、を、益々しなくなってきた。CDやレコードを買い集めるのが趣味なので、プレイヤーの前はたまっていくブツの山。聴くより買うが勝る、音楽マニアのパラドックス…というのもあるにせよ、できれば自然に流れてきた音、どこかの誰かがかけた曲、に、偶然みたく出会いたい。なぜか自分でもよくわからないが、再生の「再生産」(そこには意外が起こらないという予感)が音楽の喜びの質を下げるのかもしれない。
「デヴィッド・シルヴィアンは、坂本の最も重要な音楽仲間のひとりとして、近年に至るまで折に触れて共作を行うことになったが、ジャパン来日の機会に出会う以前に彼の名を知っていた理由を以下のように回想している。『ロンドンに住んでいた頃、YMOのデビュー・アルバムを買って”Tong Poo”の作曲者の名前を記憶しました。アルバムのなかでもっとも強い曲だと感じたのです』(『別冊 eleking 坂本龍一追悼号「日本のサカモト」Pヴァイン、2023年)」
(『群像』2024年3月号「坂本龍一と中国の時間-成都での回顧展を機に」劉争+片岡大右 より引用)
坂本龍一さんの、しかも『東風』にも触れている記事が『群像』に出ていた(ツイッター(旧X 逆か!)でお見かけした劉争さんと、あの片岡大右さん! )「中国の複数の時間とどのように向き合ってきたのかという観点から、坂本龍一の芸術と思想を再検討してみたい」という、坂本龍一ファン必読! の寄稿になっていて、音楽や芸術、映画、あるいは政治(的かどうか)などを軸に進んでいく前半から読み応えがあって…
わたしも大好きな『東風』ですが、まずはこの曲が何をイメージして作られたか、等の検討がつづくのですが…
「細野晴臣は、中国の音楽や文化に関心はあってもゴダールには-特にそのマオイスト時代には-関心がなく(中略)それだけにかえって、この曲が人びとを惹きつける理由を第三者の視点から説明しえている。『いろんな曲がヒットしましたけど、特に外国でYMOというと『東風』なんですね。テーマ曲みたいな。フュージョンとテクノの橋渡しみたいな曲だったので、それによってYMOが受け入れられたという、大事な側面を持った曲です(後略)」(『YMO GO HOME』1999年)
という細野さんの証言を引き、「中国人の観点からしても、『東風』の魅力は、文革はもとより革命歌の参照とはまったく関係ないところにあると言えるだろう」(P175)という視点から、坂本さんの「発想源」と思われる中国の「子どもたちの歌」を発掘し、「小学校の教室で教わった数えきれないほどの歌のなかで、最も美しいと感じたこの歌」(P177) と「初めて『東風』を耳にし、埋め込まれたこの歌の断片を聴き分けた瞬間、坂本龍一の時間はわたしの時間とつながった」(P177)ところは感動的で、わたしが『東風』を繰り返し繰り返し聴いたことの、大きな理由もそこにあると初めて知ることができた。
ロックミュージック(イズドラムス)を生で体験する以前、わたしのロック(まだ淡い激情)は YMO(テクノ)だった、のと、フォークから受け取った叙情は、劉争さんがそこに埋め込まれた「メロディ」によって「一瞬にしてわたしは、懐かしい時間の渦巻きを遡って」(P177) いったのと同じように、坂本龍一さんによって「旋律をそのままコピーするのではなく、意図的な修正を加えてポピュラー音楽の文脈のなかに組み込むことで、その旋律にこれまでになかった新たな意味を与え」(音楽研究者の文子洋氏 P177)られた『東風』にあり、それに惹きつけられたのだと、偶然にも理解することができました。
そして後半の『君子、菩薩それともタオイスト?」における坂本龍一さんの思想(というよりここでは生き方というべきか)についての論考には、さらに刮目してしまった。
「坂本龍一はタオイストのような生き方に憧れ、自分もそのような存在でありたいという願いを書き記している。知己を得た中国人には地蔵菩薩あるいは君子とみなされ、本人はタオイストであることを願う。坂本龍一とは一体誰なのだろうか…」(P184より)
坂本ファンなら読みたくなりますよね!
疲れてしまいました(続く)
矢野顕子さんの歌詞付きバージョンも♪
3月なのに、なかなか暖かくなりませんし、
花粉症のかたは本当に辛い!ですよね…
何とかうまく、生き過ごしてください。
読んでくださり、ありがとうございました。
(オマケ)