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奥野克巳さん『ひっくり返す人類学』を読んだ。あとオッサンと女子のブルース、再び (大森靖子さん)。
生きなくてはいけない。
いけなくはない。ただ生きる。
お勉強しなきゃいけなくもない。
何なら働か、ないと、
いけなくもない (ポエム)
書店で人はどこまで我慢できるのか…という本をパラパラ見て棚に戻した。生理的にムリ! なのと「しなければならない」とこうなるだろうよって話に (勝手に) 結びついて。
猫はワンコは どこまで我慢できるのか。
寒い夜だから。混乱なきもの、は、嘘だ 。
なぜかわからないが、小学校から中学校くらいまで 必ずクラスに一人、全く (といっていいくらい) 喋らない、声も聞いたことがないような生徒がいた。
それのどこがいけないの ?
わたしは内心そういう子を可愛いと思っていた (50年とか過ぎた今 はじめて言語化した)
わたしは (生涯) 劣等生だから 敵はわかりやすく優等生って言ってるけど。高校受験の時 滑り止め (って一応受けた) の私立校から貰ってきた問題集をぶん取って勝手にぜんぷ解いて返してきて、その後 埼○大学に行って教師になったようなやつ。
そういうのは、世の中がバブルに浮かれるネアカの時代になればネクラを率先してイジったろうし、教師になっても何だか暗い、政治や世の中のことなんで無関心だったはず。だから こんな時代にしたのはそういう優等生 (とわたし) だと思っていて。
それとは別に、
ホンモノの優等生は、いる。
奥野克巳さんの『ひっくり返す人類学』(ちくまプリマー新書) を集中して読んだ。
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大森靖子ファン仲間である「名前は、まだ無い (N/N) 」さんがネクラによるネクラのための読書会 (第2回) に選んでくれた (有難い。放っとくと何もしないナマケモノなので🙇♀️)
N/Nさんがこの本を選んだ理由は YouTube で見た この本にも出てくる妖怪絵本作家の加藤志異さんの「妖怪になりたい」という発想の面白さと、人間社会に嫌気がさしたという背後にある絶望感が何となくわかり、共感したから (とのこと)。
奥野さんは昭和37年 (1962年) 生まれで 我々 ネクラブラザーズより 3コ上の先輩世代にあたるわけだが、幼稚園のころからたくさんの習い事、お稽古ごとに通わされたそう。
「幼い頃から種々の『お稽古ごと』を含めた幼児教育によって『鍛え上げられていた』のでしょうか (中略) 他の生徒があまりにできないので、私は授業中に音読であてられた時に、皆に合わせるために、わざとたどたどしく読んだ記憶があります (P31) 」
「『お稽古ごと』に関しては、全然嫌だったという記憶がありません (P31) 」
しかし
「妹のほうは『お稽古ごと』が嫌いだったようで、ある夕方、ピアノ教室の先生から (中略) 電話がかかってきました (中略) 妹は、人家の陰にうずくまって座り込んでいました。ピアノ教室に行きたくない一心だったようです (P32) 」
という妹さんとの違いがありつつも…
「そんなこんなで物心ついた時分から勤しんだ『お稽古ごと』ですが、そのうち何かひとつでもものになったかというと、全然そんなことはありません (P32) 」
「それでも、私の『お稽古ごと』の時代を振り返ってみると、人類学者になるきっかけをそのときすでにつかみとっていたことに気づきます。それは偶然の出来事でした (P32) 」
として二十歳の時、初めてメキシコの先住民の村に旅するに至るエピソードが語られていく、第1章の「学校や教育とはそもそも何なのか」から心をつかまれた。
12/7(土)毎日新聞に奥野克巳著『ひっくり返す人類学 ―生きづらさの「そもそも」を問う』(ちくまプリマー新書)の書評が掲載されました。
— 筑摩書房 (@chikumashobo) December 7, 2024
「閉塞感が蔓延する現代社会の中で、人類学的思考が別の世界のあり方を切り開く方法として、再浮上するのではないか」中島岳志さん評
📕https://t.co/U8qvONk33x pic.twitter.com/Jdx7tmu3rP
帯にあるように、そして著者である奥野さんご自身が「おわりに」で振り返りつつ丁寧にまとめられているように、
第1章では「教育とは、学ぶとは、覚えるとは、そもそもどういうことなのか…」
第2章では「権力を集中させないように工夫している社会に目をむけて」
第3章では「日本には存在しない『精神病理』的な現象を取り上げ」たり「私たちが現在、葬儀が『要らなくなる』社会に向かっているという見通しを示しました」
最後の第4章では「私たちが、動物や自然を人間から切り離して見ている点から出発し」「世界では、人間を自然から隔てるような考え方がそれほど当たり前ではないことを指摘しました」
コンパクトな新書サイズ、それもちくまプリマー新書という若い読者を対象とするレーベルで 人類学の入門書としての役割を果たしながら、むしろ私たち大人世代の常識や思い込みがまさにひっくり返される。
多くの人の 生きづらさの原因 (と見ている)、閉塞した日本社会脳 (思考) から循環的な世界的身体 (行動) への変容 つまり解放の必要性を、人類学の知恵 (知識ではなく) の中に見いだすその手捌きは、説得力に満ちている。
これは刺激的な読書体験だ。
その上でよく考えてみると、比較的ダイレクトにひっくり返されたことと、ひっくり返されはしたが、すでに無意識にひっくり返していたこと? に気づかせてくれたことの2パターンがあることに思いあたったりもした。
もっともひっくり返されたのは、第3章「5 日本における『この世』からの別離」でとり上げられる、葬儀が要らなく社会のこと。
今年は愛猫🐱のひとりが死に、叔母さんが死んだ。悲しかったけれど 実の親の時やコロナ以前の大勢の参列者がいる場合と違う、妙な客観性があり、猫が固くなり、人が骨になることに慄 (おのの) きもした。
そうして誰にも知られず忘れられてしまう呆気なさと、何だか以前とは違う、死者を忘れないためにするはずの 儀式の簡素化 (省略化) が進む昨今の葬儀への疑問とが浮かんだ。
なので思わぬ偶然! と食い付いて読んでしまった。まずは日本における「葬儀」の歴史を要領よく振り返っている部分。そもそも江戸時代からお寺を中心とした地域共同体だったり、高度経済成長期以降は葬祭業者が担うようになったり、それぞれの時代におけるシステムに過ぎないことがわかる。
また テッタイド (手伝い人)、が果たしていた葬儀の担い手としての役割が、自らの死後に対する安堵感、安心感をもたらしていたという部分には特に刮目した。
「ところが今また、様々な社会的・経済的環境の影響によって、日本の死は激的に変容しつつあります (P132) 」として、「『葬式が要らない』という主張ではなく、葬式がいまの日本で無くなろうとしている (P134) 」
「そもそも死の事実は他者に伝えられなくなり、『死の消滅』の時代が到来するだろう (P135) 」「それは、葬儀というものは、難しく考える必要がなくなったということでもあります (P135) 」という宗教学者の島田裕巳さんの指摘を紹介しながら、ご自身がフィールドワークを続けている狩猟採集民プナン社会でも「今も昔も死は忘却されるべきものであるとされ、葬儀そのものがとても簡素なかたちで行われてきたからです (P136) 」として、「デス・ネーム」によって死者を無名化、つまり「死者を『忘れる』」プナンの死の習俗を詳しく紹介し、ここは「人類学者がひっくり返すのではなく、現代社会が今、日本人の死をひっくり返しつつあるのかもしれません」とこの章を結ぶ。
今回の葬儀体験以前にも、そういえば「墓じまい」だとか、これまでの感覚だとちょっとそれはどうなの? っていうことを世間のみならず兄弟の口から聞くこともあり…これは確かにひっくり返された。
そして「ひっくり返されはしたが、すでに無意識にひっくり返していたこと? に気づかせてくれたこと」の方については、第1章「学校や教育とはそもそも何なのか」で紹介されるカナダ北西部に存在する狩猟採集民、ヘヤー・インディアンについて、日本の文化人類学の原ひろ子さんのフィールドワークを紹介しつつ考察を進めていく部分だった。
「また、生活をつぶさに観察していると、ヘヤー・インディアンの文化には『教えてあげる』『教えてもらう』『誰々から習う』『誰々から教わる』という考え方自体がないということが分かってきました (P41) 」
この 本書のつかみとも言える部分、わたしみたいな劣等生は特に読んでほしい (学校や学びについて、奥野さんが冒頭に持ってきたことの意味! )
『ひっくり返す人類学』は、副題に「生きづらさの『そもそも』を問う」とあるように、ホンモノの優等生が生きづらさを抱えるすべての人に向けて書いてくれた、愛の書だ。
いずれにせよ社会とは、死者から生者への壮大なるリレーなわけだから、生まれた時代やその社会を大前提として受け入れる必要があり、とりあえずそこから人生のレールに乗っかって、劣等生であろうと現代社会 (文明) の恩恵に預かることができたわけだ。
皆の権利として平等に受けることができた、学校、教育、学び、つまり義務教育のおかげだった。それは認めるが、だがしかし。
自身を振り返ってみると、恐らく時代的に強調されてた平和教育と、一方で現実問題として存在する米ソの冷戦構造という理想と現実が同時にあって、劣等生のくせに「核抑止論」などという (保有と使用が前提になっている) 未だ議論が真っ二つな、正解などあるはずのないテーゼに納得できるわけもない (そしてそれは今、日本被団協がノーベル平和賞を受賞して『核の抑止力なんてない』と高らかに言ってるわけで)
たぶん後付けの屁理屈だけど、劣等生ゆえにそういうダブルバインドには耐えられない。耐性がないのは確かだと思う。
そっからして勉強が受け付けなくなった。
俺たち 劣等生とドロップアウトの心が、この日いちばんひとつになった気がした。
「物事がわかるとは、何をすべきかの説明をとおして、型どおりの指示で、言われたとおりに指示の表面だけをなぞることではありません。知ることは、今起きている出来事について、自ら能動的に後を追うことなのです。『内側から』知るとは、すでにある考え方ややり方を誰かから『教えてもらって』習得していくのではなく、自ら経験することを通じて知ることなのです (P64) 」
わたしがこの『note』で糖尿病のことを書いたこともそういう感覚だったので、とてもよく府に落ちる。たぶん (僭越ながら) わたしもわたしなりにひっくり返していた。
N/Nさんもこの本に刺激を受けたことをいろいろと語ってくれたのだが、「土地も財産も『所有』することに疑問があった。金で買ったものだが自分のものではないという感覚が昔からある」と言っていた。昔から。
そして思った。わたしが、中高年の仲間たちを生活習慣病から救おう、啓蒙しようなどと言うのは傲慢なのかもしれない。そういう視点が得られた。自ら能動的に知れ。さもなくば 死んでも仕方がない、のだ。
海もいいよね 山もいいよね
学校に先生はいなかったでしょ
魚に泳ぎ方 鳥に飛び方 君にあるき方 愛し方
ロングもいいけどショートもいいね
オリジナルなんてどこにもないでしょ
それでも君がたまんない
(『君と映画』大森靖子より)
大森靖子も「ひっくり返す」人だった。
大森 でもおじさんはわかってるじゃないですか。女の人は、いつか失ってしまうって思ってるからブルースが若いときに来るんですけど、男の人はあとで来るんです。だから私、おじさんと若い女の子が好きなんですよ。
中村 なるほどね。女の子は若いときに刹那があるんだ。
大森 そうなんですよ。で、男の人はおじさんのほうが刹那があるんです。
私とドリカム 2 ドリカムワンダーランド2015開催記念BEST COVERS 中村正人 (DREAMS COME TRUE) × 大森靖子より
大森靖子は超歌手を名のる芸術家ではあるがたとえば新宿歌舞伎町界隈の、TikTokの、女子高校生の、あるいはオッサンと共に「人間の生に対する理解を深める (ひっくり返す人類学より) 」優れたフィールドワーカーでもあり、知恵 (知識ではなく) を生み出し続ける文化人類学者だ。
先週、豊洲PITで行われたライブのMCで、武蔵美に入り「あらゆるものはすでに出尽くしている」とばかり言われることに対し、違う、逆に何も無い世界に放り出されたと言う大森靖子の思考は 最初から正しいに違いなくて。
キラキラの中で僕は汚れたまんま
世界が真っ二つに割れないようにここに立つ
(『さみしいおさんぽ』大森靖子より)
そう、すべてをやり直さなければいけない時代になったのだ。
「十七歳のうちに靖子ちゃんのライブに来れてよかった」
すぐ後ろからそんな声が聞こえた。
『さみしいお散歩』の曲中、
フロアでその子の前に降臨した。
2024.12.14豊洲PIT
— たぐちももこ (@momokotaguchi) December 14, 2024
さみしいおさんぽ
お散歩開始前
#大森靖子日本少女ツアー pic.twitter.com/48PtEc8tZV
たぐちももこさん動画お借りしました🙇♀️
大森さんは直に触れあう。豊洲で触れあう。
(たくさんの女子高校生 そしてオッサンと)
読んでいただきありがとうございました。