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[ちょっとしたエッセイ] 僕に東京を教えてくれる人は、もういない

 とある休みの日。急に暇な時間ができたので、スマートフォンでどこに行こうか調べていた。渋谷や新宿、上野…いや面倒くさいな。時計をぼーっと見ながら出掛けあぐねていた。でも、せっかくできた時間だからと、とりあえず外へ出て電車に乗り込む。電車に乗れば、ものの数十分程度で大きな街へ出られる。東京近郊に住んでいると、娯楽には困らない。結局、映画館にふらっと入り、終わったら近くのカフェでお茶を啜り、優雅な時間を過ごしてしまった。生まれて此の方、東京があまりにも身近で、そのありがたみも感じずに、生きてきてしまった。でも、思い返せば、東京という街を知らずに、というよりは、“感じ”ずに来てしまったなと思う。
 そんなことを考えていたら、とある人を思い出してしまった。もう何年も会っていない人で、たぶん今後も会うことはないだろう人だ。
 もう20年以上前、僕が高円寺で働いていた頃に遡る。当時働いていたところは、今じゃ考えられないくらいブラック企業で、でも、なんでもある会社だった。音楽制作、出版事業、カフェ経営、イベント事業などなど、今もそうだが、華のある仕事だけを寄せ集めたようなところで、みんな夢だけを持って働いていた。その分、薄給で時間外労働は当たり前。みんな死にそうな顔をしながら共同のオフィスで、死にかけていた。でも、それぞれの人はとてもよい人たちで、居心地だけはなぜかよかった(みんな死にかけているのに)。
 僕のデスクの横は、カフェの副店長で、3〜4歳年上だったので、いろいろと日頃から面倒を見てくれた。当時は出版事業の仕事をしていて、書店への営業で駆けずり回り、夕方に帰ってくると、その副店長の彼女が、冷たいアイスコーヒーをいつも入れてくれた。
 インターネットも黎明期をちょっと抜けたところだった、2000年代の始めはカフェブームで、東京の至る所に小さなカフェが存在して、カフェ巡りなんて言葉が流行していた。僕のいた会社のカフェも、高円寺では知る人ぞ知るカフェで、連日賑わっていた。また、その副店長の親しみある接客、キッチンではおいしい料理も作れたので、彼女目当ての人も多かった。
 僕は、パソコンも持っておらず(もちろんスマートフォンもない時代)、当時はまったく知らなかったのだが、 SNSもない時代のブログ全盛期、いろいろな人が彼女のことを写真に撮ったりしてアップしていた(その辺のリテラシーも当時は皆無だった)。そういう意味で、ちょっとしたアイドル並みに忙しそうにしているのを覚えている。
 ある日、僕が営業に出かける時に、彼女から「仕事のあと暇?」と尋ねられた。恵比寿の書店に行ったら今日は終わりだということを伝えたら、恵比寿で待っててと言われた。僕は、よくわからずに了承する。夕方、恵比寿で彼女と落ち合うと、線路沿い並ぶ雑居ビルに連れて行ってくれた。小さなエレベーターに乗って上の方まで行くと、開いた先はなんともアンティーク調の落ち着いた空間が広がっていた。そういうことに疎い僕はなんだか感心して、普通に「すごいっすね」と言った。それに対して、「せっかく東京にいるんだから、こういう店くらい知っとかないと彼女に嫌われるよ」と、笑って答えた。
 はじめて飲むラテアートのカプチーノ、まだまだ珍しかったワンプレートのカフェ飯。今までファミレスか会社のカフェくらいでしかコーヒーを飲んだりしたことがなかった僕には、黒船来襲くらいの衝撃だった。食後に2人でそのビルの屋上に向かうと、大きなタープテントのようなものが張ってあり、奥にスクリーンが下りていた。「今日は映画の上映会」とだけ教えてくれて、何人かの先客に紛れて、腰を下ろした。流れてきたのは、ウォンカーワイ監督の『恋する惑星』だった。高校生の時に、当時好きだった子が好きで、教えられてひとりで見に行った覚えがある。それ以来だった。恵比寿の雑居ビルに佇むなんともおしゃれなカフェで、食後に屋上で映画を見る。なんとなく、これが『東京』なのかと思った。東京にいながら東京を感じてこなかった僕に、初めて『東京』を教えてくれた人。
 その後は、僕が転職をしたり、彼女も独立したりして、会うことも減ってしまった。でも、会えばいつもすてきな場所を教えてくれた。時代の潮流に流され、ガラケーがスマートフォンに変わったあたりから、連絡も途絶え今に至る。でも、その引き出しには、教えてもらったいくつもの店や場所がまだある。それらを総じて、僕にとっての『東京』なのである。だから、僕に東京を教えてくれる人は、もういない。
 
 そんな思い出に浸っていたら、外は夕暮れ時になっていた。あの恵比寿のカフェにまた行ってみようかなと思って、スマートフォンで調べてみたら、残念ながらすでに閉店していた。ウェブの中では、平成カフェブームの代表的な店ともレビューされていた。ちなみに、高円寺の会社ももうない。
 外へ出て、空を見上げると見慣れた明るい夜空だった。星がはっきり見えるわけでもない、この東京の空は、相変わらず本当の姿を見せてくれない、あの頃のままだ。僕は、家路に向かう。帰ったら、『恋する惑星』のDVDを見ようと思った。


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