故人へ

先日、福島に住んでいる母方の祖父が亡くなった。享年90歳。


もう会えないんだなってふと思った時に、涙を流すでもなくただただ虚無感みたいなのに襲われた。

福島に電話かけてももうその声を聞くことはない。 
最後にテレビ通話をしたのでお互い意思疎通はできたけど、お祖父ちゃんは満足していたのだろうか。

立派な人間にはならず、人に誇ることができない生き方をしている。
体重も増えた。孤独真っ只中に生きている状態。

福島のお祖父ちゃんは饒舌に話すタイプではなかった。優しくほがらかに孫を見守っているだけという感じで、我を出す感じでもなくどちらかというと天然という感じ。仕事や人生に対する考え方とかも知らないし、叱られた経験もないからどんなことに過敏に反応するのかもしらない。
私や他の孫に何を求めていたのかも知らない。

とにかく、声が印象的で子供の頃からよく遊んでくれていたことは知っている。
 
肺炎にかかっており、病院からは『もう長くないかもしれない』と言われていたので、私もお祖父ちゃんの死は覚悟していた。
肺炎という病気が治す方法が無いこともその時わかり、どうしようもないこともあるんだと知った。
いくらネットの情報を漁っても、手術する方法とかは何も載ってなかった。金があってもどうしようもならないと分かった。

だから最後にテレビ電話したときには、『して欲しいことはないか』と聞いた。そしたら「無いよ」って言われた。
だからもう応援するしかできないから、『子供の頃から色々と世話焼いてくれてすごく感謝している。俺はできる限りお祖父ちゃんには生きていてほしいよ』と言った。
何て声をかけたらいいかわからず、絞りだした言葉がそれだ。

私はできることをやっただろうか??祖父に対して。







ここには本音を書きたいから、ちょっと下に書く。
人によっては不愉快な内容になるかもしれないし、誰に対しても言ってよい言葉ではないから。

『お祖父ちゃんはあっさり逝けてよかったな』と思った。
どうじに、『死ぬことができて羨ましい』とも思った。
生きているのが嫌だから。生まれてくるのも嫌だったから。
首を吊ろうとしたけど結局はこうやって生きている。


ウクライナとロシアの影響で、世界情勢だってどうなるか分からない昨今、変なゴタゴタに巻き込まれなくて済む。
新型コロナに屈したわけでもなく、肺炎という完治が難しい病。
祖父はシンプルに老衰で亡くなったと言って差し支えない。

最後に家族に看取ってもらい、決して悪くない死を迎えたのではと勝手に思っている。

だが、残された人、特にずっと一緒に暮らしてきたお祖母ちゃんのこれからを考えると、上記のようなことを思うだけで罪悪感がある。

お祖母ちゃんはきっと寂しいだろうから。

お祖母ちゃんには寂しい想いをしてほしくないなと思う。
以前お祖母ちゃんに「死にたい」って本音を打ち明けた時には、『死なないで』と言われているし、お祖母ちゃんの周りから親しい人がいなくなってしまうのは、とても悲しいことなのではと思うからだ。





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