歪んだ筒・津軽海峡に寄せて
自分は"筒"なのではないかと思うことがよくある。
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例えばクラシックの名曲をギターで練習する。
自分が生まれるよりもずっと前にもギターに惹かれ、音にうっとりして、曲を作った人がいることは不思議だ。
名演奏とされる音源の中に映るおじさんは既に亡くなっている人も多い。
亡霊としてこの世を彷徨う、遺された、すり切れたテープ音源みたいな演奏を、つぶさに観察して、耳コピする。練習する。
そうやって演奏できるようになる。
あの頃、うっとりした誰かの演奏。
それを、自分の右手と左手によって、近似値で再現できるようになる。
この時、福永は"筒"である。
過去から未来にうっとりを伝達するための筒になっている。
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作曲をすること、あるいは作詞をすること。
よく語られるのは「この世に対する鬱憤」が材料となり、そのメッセージ性を音楽に乗せるという形。
メッセージというのは言語の中でも、人に「意味を伝えようとする」ものであると考えている。それがメッセージという言葉の意味だと。
しかしそれなら、単純な話、言葉にすれば良いと思う。
意味をある程度集約して、一定の具体性を持って、人にわかりやすく伝える。これは、言葉の得意分野だからである。
音楽とは、もっとふんわりしたものだと思う。
具体的な形、肌触り、味。そういうものがない。
言葉のように、1単語にはこういう意味がある、という取り決めもない。
あるのは音が鳴るという現象と…加えるとしたら、それに係る情動の変化だけである。
したがって、特定固有のメッセージを伝達するツールとしては不向きである。
仮にメッセージがあるなら、ブログを書けば良いのである。
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例えば琵琶法師。
昔のおっさん(?)が歴史の知識を大衆に広めるために、歴史上の出来事を歌に乗せて語り回ったというあれ。
「なんと綺麗な平城京」のほうが元号が覚えやすい、という機能的な側面として音・韻を利用していると思う。
ただの数字の羅列よりも、語呂合わせのほうが覚えやすい。
似たもので、企業のサウンドロゴ。
社名を覚えてもらう・企業の印象を形作るために音・韻を利用している。
これは音楽の機能的な側面にあたるかもしれない。
音楽の、というより、音の。
金木犀の匂いが「金木犀」という単語以上に明細に秋の訪れを思わせるように、サウンドを伴うことで記憶に残りやすくなる。
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労働歌はどうか。
当時、奴隷として雇われていた方々が、過酷な労働環境に耐えうるために肉体労働をしながら口ずさんだという歌の数々。
あるいは、宗教歌はどうか。
神秘的な儀式を執り行うに際して、そのムードを高めるために奏でられる音楽。バリ島の「ケチャ」では演奏(祭典)中に失神する人も数名出てくるのだそうだ。それをもって人々は神が降りてきたことを察知する。
以前aireziasでケチャの勉強をしたことがある。
科学に毒され神秘性を失ってしまった悲しき現代人として感じたのは「神が降りてきたかどうかはよくわからんが、少なくとも酸欠になって倒れてもおかしくないな」である。全然息継ぎができないから。
実際問題、失神する人間が一定数居る、ということで機能としては十分だろう。それだけでも、そこには非日常が繰り広がる。
祭典には、いつもと異なる独特のムードと、それに伴う情動が付与される。
何が言いたいかというと、上記2例はメッセージを主眼とした音・韻の形ではない、ということだ。
情動の変化・躍動という、なんとなーく抽象的で、言語が届きづらいかゆい部分を掻くことができるものとして、音楽が機能しているように思える。
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ラッパーのSAMさんのインスタライブがYoutubeに上がっている。
5:00くらいあるが、触りだけ見ていただければ言いたいことは伝えられると思う。
意味+音韻の面白さで、単語が本人の言う通り「無限に」連なっていく。
「面白さで」というのがポイントで、その紐付き方・あるいはジャンプの仕方が「面白い」という至極抽象的なもので結びついて連なる。
これは、かなり福永が知る限りの「作曲」に近い。
まずギターの音を入れてみる。そしたら次、どんな音が鳴ったら面白いか。
マンドリンを入れてみようか。こうなると、ダラブッカが合いそうだ。
次は、メロディをクラリネットで吹いてみよう。
このメロなら、きっと裏にはティンホイッスルがこんなフレーズで入っていたら面白いだろう。(以下無限に続く)
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そして、この「面白い」を、
(ケチャ風に「神が降ってきた」と捉えることも可能ではあろうが)
科学に毒された(略)としては「これまでの経験・感動、それによって形作られた自分なりの常識」との距離感(近しく関連しているということや、逆に気持ちの良いジャンプをしているということ)で測っている、というのが、多分、今のところ福永に言語化できるギリギリの説明である。
自分なりの常識は、つまり、これまでに触れてきた作品や、生き様で変容していく。
ある作品に傾倒したことで感度が高まったアンテナは、また別の作品に触れたときに、今までだったら感動しなかったことにも感動するようになっていたり...
(一度ヴィンテージジーンズにハマった人間は、街ゆく人のリーバイス501が何年制のどんな状態か気になるし、格好良いものを見ると感動するものである。だが、ジーンズに興味のない人には、そもそも街ゆく人がどんなズボンを履いていたかなど、箸にも棒にもかからぬ委細なことである。)
感動のバリエーションは限りなく無限である。
とはいえ大元を辿れば、つまり、これまでの歴史に連なってきた作品たちからその人が吸収したものが(キュンキュンして目が釘付けになったものが)材料として常識や価値観を作り、それらが曲を作っているのである。
だから作曲をしていて、思う。
メッセージも、オリジナリティも別にない。
何かを伝えたいわけでもないし、ある日自分の中から驚くべき新発明を発掘するわけでもない。
ただただ、自分は(多分、ほとんど全ての作品の制作者は)感動を媒体にして、歴史を過去から未来につなぐトンネル。
"筒"なのである。
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先日アップロードされた大変気に入っている作品がある。
<よみがえる下風呂小唄 〜下風呂温泉郷の今〜(青森県風間浦村)>
下風呂温泉郷は青森県の最北端・大間から車で15分ほど南に下った場所にある。
震災・コロナ、さらには台風被害にも見舞われた場所だ。
土砂崩れの影響で一時村は完全に孤立。
ヘリコプターを使った物資の支援でなんとか切り抜いたほどだ。
しかし同台風によって鹿児島でより甚大な被害が出ていたため、ほとんどニュースにもならなかったそうだ。
元々は湯治(温泉で治療をする)客で賑わっていた小さな温泉街だったが、上記のような複数の要因で来客は激変。
今では民宿も、その近くを囲んでいた飲み屋街も、バタバタと数を減らしてしまった。
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昨年冬ごろに福永の元に届いた話はこうだった。
「青森の北端にある下風呂温泉郷という小さな村が、台風被害等で滅びる危機にある。それを救うべく、役場の協力のもと、何かしら映像を撮ることができないかと、とある映像チームが動いている。現地を訪れ、「女将の会」と呼ばれる民宿・旅館を切り盛りする女性たちの話を聞いていると、その中でぽろっと面白い話が出てきた。」
「女将さんのうちの一人が、この村に嫁いだ頃に叔母たちが歌っていた『下風呂小唄』という曲を記憶していた。この曲は、女将さんの中でも一人を除いてはもう誰も覚えていなかった。」
「口伝えで代々伝わっていた歌が、今まさに途切れようとしている。口伝えだから、譜面も録音も残っていない。」
「この『下風呂小唄』を、女将の会の皆さんに歌って頂いて、オケや和音をつけて、アレンジし直して現代に復活させる、というプロジェクトをやってみたい。」
「福永ならこういうの、面白がりそうだと思って。楽しそうでしょう?」
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…ご名答です。めちゃめちゃ面白そう!八丈島に行ったって、民謡CD付きの解説本を買って帰ってくるような男である。
相場"くさや"か"あしたば"か、せめて焼酎を買ってこい、である。
届いたボイスメモを元に、コード進行をつけ、オケをある程度形作る。
そして、動画にもあるように「女将の会」のみなさまの録音は下風呂温泉郷からほど近い公民館に、C414を2本、ステレオマイキングでセットして行われた。それがこの初夏のことである。
この時、録音・撮影に同行するという大義名分の下、実際に下風呂温泉郷を堪能させていただいた。
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まず恐ろしく通好みな温泉。
なんと温度は、日にもよるけれど47度(!〕
毎日入りにきているという現地の人にお風呂の中で聞いた話では
「体をパッとお湯につけて、カッとあっためて、さっさと出るのが下風呂流」なのだそうだ。
せっかくだし、と思って達人たちの言葉を無視して3分も4分もお湯に浸かってから表に出ると、体がふわふわした。
サウナで整う時と同じ感覚である。
47度のお湯っていうのがどういう熱さか、伝わるだろうか?
ふわふわ、というか、もはやふらふらしたのには、多分もう一つ原因がある。
小指を見ると、つけたまま入っていた真鍮のピンキーリングが、ものの3分で真っ黒になっていたのだ。
温泉の成分のことはよくわからないが、いままでに到底入ったことがないくらい、温泉の何らかの成分が鬼つよなのである。
湯から上がっても血流がブンブン巡っていて、これがただの47度のお湯でないことはピンキーリングを見るまでもなく明白だった。
湯治に最適なお湯なのだろうことが、体感ではっきりわかる。
これほど濃く熱い温泉は圧倒的に初体験だった。
キャッチフレーズをつけるならこうだ。
「オトナのための、本当に気持ち良い温泉」
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極めて海に近い、というか、旅館から漁師さんの姿が見える距離である。
津軽の荒波に揉まれた海鮮の、もう新鮮どころではないレベルのピチピチの美味しさったらまさに弁舌に尽くし難いという言い回しが似合う。
別にそもそも食道楽でもなんでもない福永である。
ジーンズの例え話で言えば、道ゆく人のボトムスに気付きもしない。
福永の舌はそういう水準の感受性で形作られている。
そんな鈍いアンテナを張った福永の舌でも、太鼓が踊るほど美味しかった。
感動。
・そういう素晴らしい海産資源が"ある"こと
・素材の良さを生かす調理法がおそらく歴史のかさを伴い確立していること
・調理がめちゃくちゃ上手でハイレベルであること
この小さな旅館のどこにそんな技術が詰まっているんだ、と唸りたくなるほど。もっとお金とってくれ、と思ってしまう。
下風呂がかつて賑わい、紡いできた歴史が、夜ご飯にこそ詰まっていると感じる。
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民宿の人。漁師さん。近所の商店の方。みな、体温の通った話し方をしてくれる。人が人と話す時の空気が好きだ。そして、マニュアルを読み上げるような接客は大企業が特定1個のトラブルで全国チェーン全体に割りを食わないためのリスク回避にはなれど、素晴らしい接客とは言い難いことがこの村にいるとしみじみ思われる。
でも、どこへ行っても、みんな、村の誰もがいう。
「若いもんはみーんな都会に出ていっちまって」
「でもなーんもねえとこだからさ、戻ってこいともいえねえし」
「増築のために買ったけど、結局あそこの建物は使ってなくて、買わなきゃよかった」
「もう毎年、やめようやめようって思うんだけど、スナックが今じゃうち1件しかないでしょう。だからやめるにやめられない。せっかく温泉に来てくれたのに、夜遊べる場所がないんじゃいけないから」
「なーんもねえ」なんてとんでもない。
たった2日いただけでも驚くほど多くのものをみた。
そしてそれは都会にないもので、金輪際、都会から生まれるはずのないもの。
「今年こそはもうやめようやめようって思うんだけど」
口を揃えてみんなそう言う。
でも、目の奥が寂しそうだった。本当は続けたいんだな、とはっきり直感する語りぶりだった。
途切れるには惜しい。
それが下風呂に滞在した素直な感想である。
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映像チームの方が教えてくれた「シビックプライド」と言う概念。
そこに住む人たちがまちに「誇り」「愛着」「共感」を持つこと。
「下風呂小唄」のリバイバル・プロジェクトを通して、村の人たちに誇りを取り戻してもらえたら。
そういう理念でこの映像の制作はスタートしたのだという。
下風呂温泉。福永はこの案件に携わらせていただくまで、行ったことがないだけでなく、そもそも存在すら知らなかった。
この素晴らしい温泉村の良さに気づいている人が、あまりにも少なすぎる。
県外の人ももちろんそうだが、そこに住み、暮らす、村の人たちでさえも。
なーんもねえなんて思って良い村じゃ、全然ないのだ。
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公民館に集まり、これからレコーディングをするぞ、という直前の女将さん達のやや緊張した面持ちは映像の中にも収められている。
不躾な感想が許されるなら、少女のようで可愛かった。
可愛らしい人たちだと思った。
録音した歌は、なるべく余計な処理を加えず。
かといって、マイクで録った音は、極めてよくできている「耳」という器官(意識というデフォルメが加えられて脳に到達する)に比べて情報量があまりに無機質なため
あの日、下風呂の地で、この耳で聴いた女将さんたちの声色に近づけるべく調理をした。
それは、その前夜に食べた海鮮の酒盗和えのような、素材のみずみずしさを存分に引き出すための調理のつもりである。
現地で海、鳥、虫、お湯の揺らぎ、みなさんの気を抜いた時の笑い声、話し声。
そういった余計な音もたくさん録音してきた。
それらを調味料として音楽の中に散りばめてある。
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耳が素晴らしい器官なら、目も素晴らしい器官だと思う。
音楽において、今鳴っている(と耳・脳が感じている)音をそのまま封入しスピーカーから鳴らすことはなかなか難しいことだと思う。
部屋の響きや意識の向け方、ムードが音の認識に大きく影響しているからだ。
今回は撮影にも同行させていただいた。
カメラマンの藤代雄一郎さんが切り取る映像を現実と、ファインダー越しに見比べさせていただいた。
本当に素晴らしい!と感嘆してしまったのが…なんなら現実よりも、カメラを越した映像の方が良いのである。
今目の前で味わう風情を、カメラ越しにしっかりと再生できる。
そんな撮影の底力を感じた。
音楽をやっているので、耳に例えるとわかる。
これは本当に凄まじい技術なんだ、と言うことが。
福永はこの作品の映像の質感が大好きだ。
画面を越しても、あの日のリアルに非常に近いものが封入されていることを保証できる。
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そうして約1年の歳月を経てアップロードに至ったのが上記リンク先で観ることができる
よみがえる下風呂小唄 〜下風呂温泉郷の今〜(青森県風間浦村)
という作品だ。
先に文章を読んでくださった方のために、ここにもリンクを貼っておく。
こんなにバズってくれ〜と思った作品はこれまでにない。
なかなかバズるような内容でないことはわかるが、それでも、少しでも。
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この時、福永は、初めて、具体的に"筒"になった。
今にも口伝が途切れようとしていた、最後の一人がかろうじて口ずさむことができる「下風呂小唄」が現代に蘇り、未来につながった。
来年の盆踊りでは、この音源を使ってみんなで踊りたいね、という話が出ているそうだ。
涙が出るほど嬉しい。
素晴らしいプロジェクトに参加させて頂き、本当に光栄である。
福永が人生をかけてやりたいことの一つだ、と感じた。
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これは友人から聞いた話で、一次ソースなどはわからないのだが
小説家の小川洋子さんが言うには
「年々客観性を増して、自分という人間に対して観察者という立場を取るようになった」とのことである。
エッセイを書く上で感じたことである、とかなんとか。
以前noteにも書いたことがあるが小説家の角田光代さんとお酒を交わさせていただいた際に彼女は言った。
「たとえば句読点の位置一つ、編集の方に直されたとして、そんなところで意地を張らずに譲ってしまえば良い」
「誰かの言うことを素直に聞いたって、そんなことであなたの/作品の魂は絶対に汚れたりしない」
なにかで見聞きした曖昧な話だがエルビス・プレスリーが世界的にオリジナルであると評価された一方、本人としては憧れの音楽家になりたくて、近づきたくて奔走していたのが真実だったと言う。
その、いってしまえば「コピーの精度が低いこと」が全くオリジナルを生み出した、と評されるに繋がった。そんな言説を読んだことがある。
まあ、こういうことは本人にしかわからないはずだから(あるいは本人にすらわからない場合だって多い)話半分くらいで捉えておけば良いだろう。
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作品を作ろうと思う時。
意識して「オリジナリティ」を発揮しようとすると様々な柔軟性を失う傾向にあると思う。
仮説だが、本来オリジナリティとは無意識に滲んでしまうもの(歪み)のことである。
自分は"筒"である。このメタファーは、自分から距離をとり観察者になるためのライフハックとも言えるかもしれない。全く無意識ではあったが。
観察に徹する。何かを譲っても、魂が汚れることはない。幹はそう簡単に折れたりしない。全ては"筒"を通過し過去から未来へつながるだけである。
その"筒"ってのがおそらく、人それぞれ歪んでいる。
言い換えると"綺麗な筒"なんてものがそもそも存在しないのかもしれない。
ひとそれぞれ、異なる筒を持っている。
その歪みを経過したものが、他者から見るとオリジナルとして「幻視」される、それだけのことなのかもしれない。
「下風呂小唄」を再構築させていただくにあたって
その歴史や感じたもの・ことをなるべくピュアに、そのまま伝える事ばかりを意識していた。
ほぼ無意識にだが「私は筒、つなぐためのトンネル」と唱えながら作っていたようなものだ。
ところが出来上がった作品を見てくれた近くにいる友人たちに言わせると
「めちゃめちゃ福永らしい音に仕上がっている」
とのことらしい。…そうなのか!
そう言えばこのプロジェクトを振ってくださった方も
「福永なら楽しんでくれると思って」と言っていた。
その一言は福永のパーソナリティの偏りを予見しての言葉だったのだろう。
歪み=オリジナリティはメタ認知することはできても正式にそこから離れることはできない何かなのだろう。
だからこそその特質を少しでも掴もうと思うなら、なるべく距離を置き観察者になること。
間違っても「自分らしくないからそんなことはしない!」なんていう、意固地で歪みの内に見る世界と手を繋いだりしないことだ。
現時点ではそんなふうに思う。
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福永は、そしておそらく、誰もが、生きているだけで。
過去を未来につなぐ"筒"である。
筒の外壁はさまざまな感動で形作られる。
だから、全て筒はすべからく個性的に歪んでいる。
本日はこれでおしまいです。
以下は、路上ライブで言うところの「ギターケース」のつもり。
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