厳しいことも伝えてくれる人の存在
最近、思い返したようにちょっと昔の日記帳を開いています。
この1年間、振り返ると苦しいことがたくさんありました。その中でいろんなことを考え、悩み、そして行動してきました。
そういった日々の様子をまとめた日記は、たぶんこれからも僕にとってとても大切なものになると思います。
ただ、過去を懐かしんで悦に浸るのも良いけれど、そこからどういった学びがあったかを振り返り、今後に活かしていくことも大事だと思います。
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フィリピンという海外での生活に苦しみ、未来が描けなかった当時、僕は信頼できる何人かに相談していました。自分自身を見失っていた僕の気持ちを汲み取ってほしかったし、何か背中を押してほしかった。藁にもすがる思いでした。
僕が連絡を取った人たちは、みんな優しい人でした。
僕の良い部分を褒めてくれたり、未来を描く手伝いをしてくれました。また何が不安なのかをひとつひとつ紐解いて明確にしてくれたりもしました。
本当にありがたかったし、今でもとても感謝しています。
あの頃に支えてくれた人たちは、これからも僕にとっての恩人となり続けるでしょう。
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とは言え、中には厳しいことを伝えてくれる人もいました。
当時の僕にはメンタルをえぐり取られるような厳しい意見でした。でも、それは同時にとても説得力のある意見でもありました。
これを聞いて、自分自身が甘ったれていたことに気づいたし、どこか「誰かが何かしてくれるだろう」という他力本願的な考えを持っていたことにも気づきました。
僕がこの厳しい意見を受け入れられたのは、僕がもともとこの人の働き方にリスペクトを持っていただけでなく、この人が飴と鞭の使い分けがとても上手だったことが理由としてあります。
起業家として活動しているその人は、普段はとても優しく、僕が相談した時も話を最後まで聞いてくれました。そして、厳しい意見を伝えた後は、ちゃんとフォローもしてくれました。
仕事の実績もそうですが、こういった細かい気遣いができるからこそ、厳しい意見も僕に刺さったのだと思います。
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大人になると、周りの人たちは都合の良いことしか言ってくれなくなります。というより、物事の分別がつくようになって、自分が心地良くなる意見しか受け入れられなくなってきます。
甘い言葉を味方に良い気分になるのは悪いことではないけれど、それは自分にとって本当に欲しい意見ではなかったりします。
だから、飴と鞭の使い分けがうまく、現状の悪い部分を的確に認識して、厳しい意見もちゃんと伝えてくれる人に出会うことが大切だと思いました。
自分の人生は自分のもの。
みんな本心では、他人のことなんてどうでもいいと思っているのです。
そんな中で自分に対して真摯に向き合ってくれる人を、これからも大切にしていきたいし、同時にこういった厳しい意見を伝えてもらえるような謙虚さや受け入れられる素直さも忘れずに持っておきたいということも強く思いました。
僕のことは以下の記事で紹介しています。
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それでは、また明日お会いしましょう!