哲学を意識し始めた、今日この頃。
「哲学」
一見するとそれは取っつきにくいトピック群ではあるが、現代社会を思考していくうえで非常に有用なものであると最近気づき始めた。
今年に入って院の授業が落ち着いてきたので、興味のある文献を読み漁っている。
『構造と力』を皮切りに、構造主義からポスト構造主義までの通史を読んだ。その後、ポスト構造主義と区分けされる巨匠、フーコー、デリダ、ブルデューなどについて調べた。二か月前からはフーコーの後期の作品である、『監獄の誕生』の邦訳を読み始めた。もう少しで読了。
ポスト構造主義、現代思想、社会構成主義、で論じられているトピックはある程度認識論の共通認識があるように思える。それは、差異の体系であり差異に着目することによって、巨匠らは現代社会に対して、問題提起をしている。
例えばそれは二項対立の不確実性や、日常生活に潜んでいる権力関係などである。
では一体私は哲学の何に対して意義を見出しているのだろうか?それはおそらく、哲学は当たり前のこと(世間一般の)が当たり前として捉えられ、加速度的に過ぎ去っていく現代社会の在り様にいったんブレーキをかけ、思考を促してくれる。これって本当に当たり前なのか?これって見過ごしちゃだめだよね?を至極真っ当なロジックをぶつけて私たちに内省を促すところにあるのかなと思う。
もちろん、哲学は私たちの社会のこれからを考えていくうえで有意義な道具箱として機能するが、私がそれ以上に意義を見出しているのは、私自身の過去に対しても解釈の余地を与えてくれるところにあるのかなと思う。
過去という時間軸は過ぎ去ったもの、永遠に取り戻すことはできないしその過去を変えることもできない。けれども過去の経験を現在において「語る」ということは紛れもなく現在進行形の出来事なのである。この現在進行形の出来事を語り継いでいくために、哲学は有用なヒントを与え、過去に私自身が自明視していた事象を脱構築するきっかけになることに可能性を見出しているのだろう。
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