押見修造『血の轍』読んだよ
いつも見ているyoutubeチャンネル「ゲームさんぽ」で紹介されているのをきっかけに、押見修造さんの『血の轍』を読みました。
https://www.youtube.com/watch?v=Ivin4VET0Y8
これは…とんでもねぇよ。
家族という地獄(©️宇多丸師匠)
『血の轍』では主人公の静一が若く美しい母・静子に精神的に支配される様子と、半径5メートルほどの人間関係のなかで生じる些細な(しかし、根深い)不愉快がカタストロフに転がり落ちていく様子が丁寧に描かれています。突発的な事件をキッカケに静一と静子の共依存的な親子関係がより病的になり、静一は壊れた家族のなかで自身の内面と向き合うことになります。
小さいコミュニティ(学校とか親戚とか)って逃げ場がないよなぁ、ましてや親子関係っておかしくなると地獄だよなぁ…という悲しみや諦念が、読んでいる最中ずっと頭の中をぐるぐるしていて、大変しんどい読書体験でした(褒めてます)。
僕は年を追うごとに思春期モノ・学園モノといったジャンルが苦手になっているのですが、おそらく学校や家庭といった環境の閉塞感、問題の解決不能性といった要素を突きつけられるのが辛いのだと思います。自身が幼少期に家族や学校で軋轢を感じた経験は特にないのですが、それでも狭い世界が持つ独特の磁場のヤダ味というか、圧迫される感じはなんとなくの不快感としては記憶にあり、それが抽出されてこういう作品として提示されるとかなりキツイものがありました。
これこそが"セカイ系"なのでは
聞かなくなって久しい言葉ですが、僕は『血の轍』を読みながらずっとセカイ系という言葉を思い浮かべていました。セカイ系というと、中間集団である社会が描かれず、個人的な人間関係と世界の危機が直結してしまう(=俺とお前で世界がヤバい)ことが特徴と言われますが、閉じた家族の場合親子以外にそもそも世界がありません。
静一から見た静子は異様なほどに美しく、たびたび神のイメージで描かれていますが、これは静一の世界には自分より上位の存在である静子しかいないからです。
翻って静子は、静一に愛情を注ぐ以外に人生の意味を見出せません。作中でも「過保護」と揶揄されるほどのおせっかいや強烈な抑圧(同級生・吹石さんの手紙のシーンは白眉)、性的なニュアンスを帯びた触れ合いには、静子が静一に単なる息子以上の執着を見せていることがよく現れています。
「静一が幼かった」という一点のみで保たれていたこの危うい世界は、静子の激情と静一の成長によりどんどん崩れていきます。作中で描かれる静一から見た世界が徐々に壊れていくのを見るにつれ、これはバッドエンドのセカイ系なのだなという確信が強まりました。
あり得た可能性…も、また悲劇
家族スリラーとして最高に恐ろしい『血の轍』ですが、僕が真に震えたのは11巻の描写でした。
ここで静一は「自分もまた母を抑圧していたのかもしれない」という可能性に思い至ります。勿論これは静子の「私がこんなふうなのは息子であるお前のせいなのだ」という恐ろしい責任転嫁によって植え付けられた(おそらく誤った)考えなのですが、一貫して健気な子どもであった静一が、吹石さんとの交流を通じて幾許かの自立心を持ったことで初めて意識された別の可能性、とも言えるでしょう。
本来「異なる見方を獲得する」というのは喜ばしい成長なはずですが、ここで描かれる神ではない母、そして神の子ではない静一のヴィジョンは、恐ろしいの一言では片付けられないほど禍々しく、読んでいて「やめてくれぇ…」と声が出てしまいました。結局のところ静一と静子の世界はどん詰まりだったのだということが確かめられてしまうこのシーンは、夢に出てきそうなレベルでキツイ数十ページでした。
面白い!そして辛い!
カジュアルに読める娯楽作品ではまったくありませんが、精緻な心理描写やスリリングな展開は無類に面白く、買ってよかったなと思っています。尤も、非常にメンタルを削られるタイプの作品でもあるため、精神的に不安定な人にはオススメできません。物語は最終章が開幕したところまで進んでいますので、恐ろしい深淵を覗き込みたいという方は一緒にオシッコを漏らしましょう。
最後に蛇足を。一人っ子・核家族・親戚付き合いが希薄という点では、静一と僕には共通点が沢山ありました。僕は静一のような抑圧を感じていないのは、単に両親が大人だった、大人であろうとした、という幸運に恵まれたからでしかありません。あらゆる親たちに畏敬の念を覚えます。