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原体験って、過大評価されすぎてない?

いま、世の中では「ストーリー」や「共感」が求められている。

単純にそのサービスの「質」や「値段」だけでは差がつきづらくなってきたから、ぼくたちはその背景にある「ストーリー」や思想への「共感」によって、どのサービスを使うかを選ぼうとしている。

そして、その「ストーリー」や「共感」に必ずといっていいほどつきまとうのが、「原体験」だ。

「どうしていまのサービスを始めようとしたんですか?」
「数ある領域のなかで、いまの事業を選ばれたきっかけはなんですか?」

などなど、商品の作り手や経営者には、往々にして明確な変化の「きっかけ」が求められる。

最初に断っておくと、本noteは強烈が原体験がさしてないことに若干のコンプレックスを感じているぼくによる、超絶ポジショントークだ。

ぼくは東日本大震災のときは兵庫県にいたし、両親はふたりともいて、いまも一緒に実家で暮らしているし、なんなら留学や休学の際にはいろんな面からサポートしてもらった。

死の瀬戸際まで追い込まれた大病を患ったこともないし、まあ強いて部活での挫折体験くらいならある。

でもそんなぼくでも、世の中をもっと面白くしたいし、誰かになんらかの価値を提供したい!という気持ちは、すこぶるある。

それで去年なんかは1年休学して、裸一貫で東京に乗り込み、ベンチャー2社で文字通り朝から晩まで働いたりもした。

それで、たまに「なんでそんなにモチベーションが高いの?」とか「よく兵庫からひとりで東京に来ようと思ったね」なんて言われるのだけど、正直、じぶんでもべつに「これ!」といった原体験があるわけでもない。

そりゃ、それなりに印象に残っているできごとを、それっぽく話すけれどもも、その事象は、ぼくの決断に与えた1要因でしかない。

じぶんのやりたいことや到達するべき位置から逆算したときに、こういうことができないといけないなとか、こういうことをしたらその目的に一歩近づけるんじゃないかと、ある程度論理的に理由を並べ立てて、これまでの決断は下してきた。

念のために言っておくけど、これは「原体験」の存在を否定するnoteではない。

「原体験」がないからって、そんなにガッカリしないで、ということを伝えたいnoteだ。

確かに、「原体験」があるのは「わかりやすい」。

話としても美しいし、メディア掲載なんかのことを考えると、そっちのほうが都合がいい。

それにひとつ大事なのは、強烈な「原体験」によっていまの決断をしたひとも、少なくない数いるということだ。

もしそうであるならば、その原体験を知ることは、そのひとの構成要因をよく知る重大な手がかりになる。

だから実際、ぼく自身がインタビュアーとしてだれかに話を聴かせてもらうときは、「原体験」(があるかどうか)を尋ねる。

ただ、そこでないひとにとっては、ぼくのように「なくて申し訳ないんですけど...」とか「これこれのいろんな要因が重なり合って....」などと、相手に気を遣わせてしまうときがあるのが、悩ましいところではあるんだけど.....


まあ、なにが言いたいのかというと、ぼくが大事だと思うのは、「過去に何を体験してきたか」ではなくて「いま何をしているのか」ということだ。

そのひとの魅力を知りたいと思ったときに、そこまでの過程というのは、あくまでも副次的なものにすぎない。

というかむしろ、原体験もないのにそのひとのルーツを知りたくなるような魅力なことやってるって、逆にそっちのほうがすごくないか?!?!(ポジショントークたたみかけ)

震災を経験せずとも「人生一度きりだから、じぶんのやりたいことをやろう」と自発的に考えて起業したり、難病を患わずとも「ぼくはひとの命を救いたい!」と思って医者を志すひとたちのことも、原体験があるひとたちとはまた違った魅力があると思うんだ。


★まあぼくにも、ブログを書き始めたのは「ちきりんさん」っていう、明確な原体験があるけどな!






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