「何者」かへの渇望を否定しない
『何者』かになりたい。
ぼくはそう思っているし、というか、褒めてもらったり、自分の存在を肯定してもらったりして嬉しくない人なんていないだろうから、この世のすべての人『何者』かになりたいという欲求は、持っていると言っても過言じゃない。
『何者』かになりたいぼくは、今日もこうしてブログを書くし、『意志』がないのに『エネルギー』だけあり余った大学生がやりがちな、ヒッチハイクも留学も休学インターンもしたし、先日はついに京都の山奥で2週間にわたって瞑想もし続けてしまった。
あとオンラインサロンにはもちろん加入していて、メルマガも複数購読している。
最先端の情報やノウハウを仕入れて、『何者』かになるためだ。
だから、時折流れてきてはそのたびにバズる『何者かになれなくても、もっと大切なことは日々のなかにあるよ』的な、”優しい”言葉をお節介だと感じる。
いや、正確には感じて”いた”。
▼『何者』かへの切望ぶりがにじみ出ている約3ヶ月前のnote
過去形にすると語弊が生じるかもしれないけど、もちろんいまでもTwitterのフォロワーが増えたら嬉しいし、noteにログインするたび『どれくらいスキ数が増えてるかなあ』とドキドキしたりもしている。
けれどまあ、結果が良かった占いだけ聞き入れるみたいな感じで、いいねとかスキとかなにかしらの反応をもらえて喜ぶことはあっても、0いいねのツイートや微増しかしないフォロワーに、悲しむことは少なくなった(なくなったわけではない)。
そして昨日このnoteを読んだとき、『理解』だけじゃなく『納得』もしている自分がいて、『あぁ”解脱”は進んでるな』と再確認することができた。
『違和感』は、前からあった。
多くのオンラインサロンやメルマガの謳い文句は、『一歩抜きんでよう!』だ。
つまり、オンラインサロンやメルマガに対して払うお金は『初期投資』で、そこで得たスキルや情報を使って、後から『外で』回収できると。
この理屈を聞いたとき『これって、全員が幸せになれるシステムじゃないよな』と思った。
結局、知名度や影響力は相対的なものでしかなくて、誰もがインフルエンサーになれるわけではない。
『何者でもない人』が仮に『何者』かになれたとして、そこで生まれるのは『全員が何者かになれた世界』ではなく『”新しい”何者でもない人』だ。
構造上、絶対に『”何者”と”何者でもない人”』の両者を生んでしまうのなら、我先にと『何者』を目指すよりも『何者だろうが何者でもなかろうが、みんなが幸せに暮らせる社会』を志向したほうが、ぼくにとっても世の中にとってもいいなと思った。
『もういまは農耕社会じゃないんだから、わざわざ定住する必要はない』と言って、自身のノマドライフをひけらかす投稿をたまに見かける。
『あなたもフリーランスになって、パソコン1台で自由気ままな生活を!』と。
でもその人が日本や世界を飛び回れるのは、その土地に腰を据えて生活してる人がいるからだ。
その人が現地で歩く道も食べる料理も泊まるホテルも、みんなそこに住む人たちが提供してくれるから、成り立っている。
そこをすっぽかして『みんな世界を飛び回ろう!』は、ちょっとポジショントークが過ぎるんじゃないかという気がしている。
「誰かの夢を応援したい」は動機になりうるか?
先日、ファッションショーを初めて見にいった。
みんなすごく笑顔で、すごくキラキラしていて、すごくカッコよかった。
ただ、1つだけものすごい違和感があった。
そのショーで歩いていたぼくの友だち、もしこの文章を読んでくれてたらごめんなさい。
そのショーでは最後、出演したモデルたちに対する『人気投票』が行われる。
そしてその順位は、今後の活動に大きく影響する。
だからモデルのみなさん、投票直前のスピーチでそれぞれありったけの想いを叫ぶ。
中には、スピーチをしてる途中で泣き出す方もいた。
それくらい本気なんだなってことが伝わってきて、聞いてるこっちまで熱くなった。
ただ。
ただ、スピーチの最後が異口同音に『こんな自分が有名になることによって、夢に向かって頑張ってる人を応援したい』という言葉だったことが、ぼくにとってものすごい違和感だった。
この違和感はまだ違和感のままで、なんで違和感を覚えているかは整理できてないんだけど、あえてそのときの感情をそのまま言語化すると、『そんなキレイごと言うなよ』だ。
『キレイごと言うなよ』って人に言っておきながら、自分がキレイごとを言うと説得力がなくなるので、あえて『そんなキレイごと言うなよ』と書いたけど、その後にぼくが付け加えたい言葉は『もっとあなたのエゴをさらけ出して欲しい』。
ぼくはあなたたちのことを応援してるから、お金払ってチケット買って、イベントも見に行ってるのに、応援してる人に『応援したい』と返されても、『いや、あなたはあなたのやりたいことをやってください』と思ってしまう。
これは単純に、ぼくがひねくれてるからだけかもしれない。
けどそれでもぼくは、『誰かを応援したい』あなたよりも、『みんなの前で歌を歌いたい』あなたや『俳優になって映画に出たい』あなたを、ぼくは応援したい。
『誰かを応援する』のは、あくまでもその”結果”であって”目的”じゃない。
『歌を歌いたい』や『映画に出たい』というあなた自身のエゴに向かって、レッスンに通う”過程”やオーディションに選ばれたという”成果”をぼくたちが見て、与えられなくても勇気はこっちが勝手にもらう。
だからもっと、私利私欲にまみれてていいから、モデルさんたちの『エゴ』をぼくは聞きたかったのだ。
ただ、この一連の文章は壮大なブーメランでもあって、ぼくだって少しずつだけど積み重なるフォロワーやいいねを眺めながら『ところでこの先には、なにがあるんだろう』と思う日もある。
というか、ぼく自身に『意志』がないことを自分が一番自覚しているから、モデルさんたちの『誰かを応援したい』という漠然とした動機に、敏感に反応してしまったのかもしれない。
万が一にもぼくのフォロワーが100万人になったり、ツイートが1000いいねいったとして、ぼくにその先の何かがあるかと聞かれれば、ない。
いや、ないことはないんだけど、どれも『プレゼン用の建前じゃないのか?』という疑いが自分のなかにあるから、それを自覚している以上は後付けなんだろうなと思って、まだ自信をもってそれを自分の『意志』とは呼べない。
だから、
そこに「注目されたい」「有名になりたい」という種類以外の、その人自身の中身になるようなものがまったく伝わってこないことがとても多いな、と感じる。(中略)
勇気を与えたいんじゃなくて、「何者か」になりたいだけなのだ、たぶん。
という、上で紹介したnote中にあった言葉が、ぼくの胸に刺さって仕方なかった。
でも、『意志』なんてそもそもそんな一朝一夕に形成されるものではないから、いまはとりあえず『ぼくはいいねをされると嬉しい』という自分のなかにある承認欲求の存在を、認めるところから始めている。
「何者」かへの渇望を否定しない
上の戸田さんが書いた『SNSで死なないで』はもちろん、今日のこのぼくのnoteもそうだけど、決して『何者かへの渇望』を否定するものじゃない。
最初に言った通り、それは程度の差こそあれ、みんなが持っている自然な欲求だ。
『何者と何者でもない人たちがいる世界』には、言わずもがな『何者』も暮らしている。
だから大事なのは、何者かへの渇望に『溺れすぎない』こと。
何者かを目指すのは構わないし、なれたらなれたでそれはとてもすごいことだ。
でも逆に渾身のツイートに全然いいねがつかなかったり、全然フォロワーが増えなかったりしても、過度に落ち込む必要は全くない。
ぼくは戸田さんのnoteを、そんなふうに読んだ。
だから『SNSで死なないで』でぼくが一番響いた箇所は、下の2文だった。
今日のnoteはそこを引用させてもらう形で、終わろうと思う。
フォロワーぜんぜんいなくても、友達ぜんぜんいなくても、町中でだれもあなたのことを知らなくても、いいねが一個もつかなくても、そんなことは、どうでもいい。あなた自身の価値は、あなた自身とあなたが大切にしている人たちだけの中で柔らかく、情けたっぷりに愛情加点たっぷりに下されるべきもので、それ以外は、べつにどうと思わなくてもいい。