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男らしさ、女らしさの非対称性について

『モテる構造:男と女の社会学』の感想を書き始めて、今日で4日目。なかなか終わる気配がしない。

1日目:男にとっての女、女にとっての男とは?
2日目:男女関係の非対称性について
3日目:「男らしさ、女らしさ」は何のためにある?

昨日のnoteと地続きになっている部分もあるので、改めて昨日の内容をまとめておくと、いまの社会は基本的には「男性」「女性」のカテゴリーに基づいていろんな制度が設計されている。

そのため、社会に適応していくならば、「自分は男か女か」ということを明確にする必要がある。

その際に「男らしさ、女らしさの規範」が参照されるということだ。

つまりぼくたちは、「男or女」だから「男らしさor女らしさの規範」に従うのではなく、「自分は男or女か」を確信するため、「自分が男or女か」を周りから認識してもらうために、「男らしさor女らしさの規範」を利用する、のである。

今日は、この「男らしさ、女らしさ」について、もう少し掘り下げていこうと思う。

※読むひと(特に女性の方)によっては、本の内容やぼくの書いてることに怒りたくなってしまうかもしれないので、そうなりそうなひとはそっとこの画面を閉じてください...


近代社会における女性差別の根源

一昨日のnoteでも書いたように、本著は「非対称性」がひとつのキーワードとなって、さまざまな主張が展開される。

今日の「男らしさ、女らしさ」についても、筆者はとある非対称性を挙げる。

それは、「女性は男らしさの要素をもってもよいが、男性は女らしさの要素を持つことは難しい」ということである。

たとえばスポーツだと、ひとむかし前は男性しか活躍していなかった種目に女性が進出することは、許されるどころかむしろ歓迎される。マラソン、レスリング、柔道、ラグビー、サッカー、野球などなど。

けれでも、女性向きとされたスポーツに、男性が進出することは珍しい。

たとえば、新体操やシンクロナイズド・スイミング。たしかに、日本には男子新体操というものがあるけれでも、国際的にみるとそういったケースは稀で、オリンピックでには採用予定もない。

女性向きとされる種目になかなか男性が進出しない背景として、筆者は『「見たくない」という意識が働いているのではないか』と指摘している。

そして、スポーツだけでなく、職業やファッションといった領域でも、同じような現象が起こっている。


この「らしさの非対称性」はどっちが有利?

ここまで読んで、「女性はどのスポーツでも活躍の可能性があるし、かつて男性しかしていなかったような職業に、いま女性はどんどん進出しているし、ファッションの幅もひろいし、女性のほうがいいことだらけじゃないか!」と思った方がいるかもしれない。

けれでも、この「らしさの非対称」には、もっと根深い構造があるのだという。

性別規範からの逸脱の許容度が男女によって異なるのは、男性が女性よりも地位が高いと思われているからである。(中略)
それゆえ、劣位の性(女性)が優位な性(男性)の特徴を取り入れるのはよいが、男性が、わざわざ劣位の性の特徴を取り入れることには、抵抗感があるという傾向が導き出される。

筆者、なんとも大胆な主張をもちだしてきた。


★最近ちょくちょく小説を読むようにしてるんだけど、なかなかおもしろい


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