「ユーミンの『やさしさに包まれたなら』の心理分析」

歌詞及び題名の引用部分は『』で表します。また、解説の便宜上、引用部分には番号をふり、それを各引用の符号とします。


①『小さい頃は神様がいて 不思議に夢をかなえてくれた』

言葉を覚える前の乳幼児は泣き声や表情、しぐさで欲求を伝えます。

「お腹がすいた、なんか痛い、寒い、おしめが濡れて気持ち悪い、寂しい…etc」

これらの気持ちを養育者は乳幼児の様子や状況から推測して欲求を叶えます。

この経験から乳幼児は

「心のなかで強く願い、祈り求めたら、神様のような存在がそれを感じ取って叶えてくれる」

と思っています。

おそらく、①の歌詞はこの状態を指していると思われます。


②『やさしい気持ちで目覚めた朝は』

人が『やさしい気持ち』を他者に向けることができるようになるには、自分自身が『やさしい気持ち』をたくさん受ける必要があります。

幼児がお人形遊びをしている場面を観察すると、このことがよくわかります。

養育者に愛され、大事にされている子は、お人形さんに自分がされてうれしかったことをします。

「そんなに泣いてどうしたの?お腹がすいたの?、あ、おしめが気持ち悪いのね、すぐ替えてキレイキレイしましょうね…」

反対に、養育者につらく当たられている子は、お人形さんにつらく当たることがあります。

(ただし、養育者の愛情は成長に必要不可欠であり、たとえ衣食住が必要に応じて提供されていたとしても、信頼関係を結んだ特定の養育者〔愛着対象〕との情緒的交流がなければ乳幼児は成長どころか生存もできません。

従って、お人形遊びが出来るまで成長した子どもが、その時まで全く、優しい言葉がけや触れ合いが得られなかったということはありえません。

よって、お人形につらくあたってしまう子も、その気持ちを優しく受け止めた上で、一緒に遊んであげ続ければ、やがてお人形に優しく接するようになります。)

遊びのなかで練習された気持ちの表し方は、やがて、実際に他者へ向けられるようになります。

このように人は、自分に向けられた気持ちを自分のなかに取り込んで、他者へ向ける自分の気持ちにします。

また、朝目覚めたときの気持ちは、その前に見た夢の影響を受けていると思われます。そして夢の材料は過去の記憶です。

これらのことから、②の歌詞『やさしい気持ちで目覚めた朝は』は、①の歌詞『小さい頃は神様がいて 不思議に夢をかなえてくれた』に表現されている愛された記憶が、寝ているときに活性化したことを示していると思われます。



③『おとなになっても奇跡はおこるよ』

この歌詞の『なっても』という言葉から、奇跡はこどもの時に神様(養育者)によって起こされていたものと考えられます。そして、その奇跡とは①の『小さい頃は神様がいて 不思議に夢をかなえてくれた』すなわち、上記の「心のなかで強く願い、祈り求めたら、神様のような存在がそれを感じ取って叶えてくれ」た…、と主観的に感じた乳幼児期の経験だと思われます。

乳幼児期にいた養育者のような存在はもういないのに、なぜそんなことが起こるのでしょうか?



これは次の歌詞の

④『カーテンを開いて 静かな木漏れ日の』
⑤『やさしさに包まれたなら きっと』
⑥『目にうつる全てのことは メッセージ』

に示されています。

自分の心の中の『やさしい気持ち』の基礎的な部分は、言葉の基礎を覚える前に取り込まれたものですので、養育者のやさしい口調、やさしい触れられ方等から感じ取られたものです。

従って、歌詞⑤の『やさしさに包まれた』皮膚の感覚は、④の『静かな木漏れ日』の暖かさから、乳幼児期の愛された記憶が活性化したものと考えられます。

つまり、さっきまで見ていた夢のなかで蘇りかけていた記憶が、目覚めた後の皮膚感覚で完全に思い出されたと解釈できます。

(ただこの記憶は言葉の基礎的な部分を覚える以前のものですから、思い出されてもはっきりと意識することはできないこともあります。大人の意識は言葉と結びつけられてますので、言葉と結びつけられてない記憶は意識しずらいのです)


ここでちょっと分析を歌詞だけでなく曲全体に向けてみます。

耳は、外界の振動を感じ取る皮膚感覚を進化させて、それを音として感じ取るようになったものです。この曲は、幼子に語りかけるような歌のメロディラインや、ゆっくりめなテンポ、協和度の高いハーモニーによって、聴いている人が疑似的に『やさしさに包まれた』皮膚感覚に近いものを感じるように作られてます。また、そういった曲の特徴にユーミンの声がぴったりあっており、曲と声質の相乗効果により、子守唄や賛美歌のような安心感と無条件の愛情を感じさせます。

この曲は全ての人の心の中にいる幼子に語りかけているのかもしれません。



さて歌詞⑥の『目にうつる全てのことは メッセージ』とは何でしょうか?

実はここが心理学者と宗教的指導者の分かれ目です。

心理学者は
「神様の正体は、乳幼児期に養育者から愛された記憶だ。祈れば叶うという妄想は、乳幼児期の、言葉を発せずとも欲求を読み取ってくれた養育者がまた現れることを願う退行だ」
とします。

つまり、大人になっても起こった奇跡、すなわち『全てのことは メッセージ』という気付きは、乳幼児期に世界の全てと感じていた養育者を、大人になった今、世界全体に対して投影(自分の心の中にあるものを相手をスクリーンにして映し出し、相手にあると感じること)し、世界全体から「愛している」「心の中で祈り求めるだけで、奇跡のように願いを叶えてあげる」というメッセージを受け取ったと妄想している…ということになります。

それに対して、宗教指導者は
「幼少期に養育者から無条件に愛されたように、大人になった今も、あなたは神様に無条件に愛されている(そもそも養育者の愛も、神様からの愛をその源としている)。そのことを伝えるために、神様はこの世界の全てを使われる。例えば、この歌にあるように木漏れ陽を通してあなたに愛を伝えてくださったりする。『全てのこと』は、神様からあなたへの無条件の愛情を伝えるメッセージなのだ」
と主張すると思います。

(仏教ならば、この文の「神様」と「無条件の愛情」という表現が、「仏様」と「慈悲」という表現に代わると思います。同様に、他の宗教でも、その宗教に『無条件の愛情を全ての存在に与える存在』を表現する言葉があるならば、その存在や、その存在が与えてくれるものを、この文の「神様」や「無条件の愛情」という表現に代えることが出来ると思います。)

従って、大人になっても奇跡が起こるのは、神様が無条件に全ての人を愛しているからということになります。

心理学者と宗教指導者のどちらを信じるかは個人の自由です。

ただ、松任谷由美の曲を聴いている間だけでも後者を信じたほうが幸せな気持ちにはなれそうですよね…


注)この分析は私個人の解釈です。絶対ではありません。他の解釈もあり得ますし、そちらの方が素晴らしいことも、もちろんあると思います。適当に楽しんでください。

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