見出し画像

「哲学と音楽」

対象として認識され得るものは消去や交換が想定可能であることから「私」ではないとすると、「私」とは対象を認識する主体であって、認識される対象になり得ないもの、と定義できます。

(以下の文章では、カッコ付きの「私」は認識する主体であり認識される対象になり得ないものを意味し、カッコの付いていない文字だけの“私”は、認識され得る私の心身を意味します。)

例えば、私が死んだ後の世界を想像すると、その想像の中には、私がいない世界を観ている「私」という認識する主体がそこにいます。

さらに、私がもとからいなかった世界を想像した場合でも、その想像の中には「私」という認識する主体がいます。

あるいは、私の心身全て、すなわち記憶や思考の仕方等も含めた対象として認識可能な私の心身全てを他者と交換するという想像も可能ですが、このように私の心身全てを交換したとしても、交換した後の世界を認識している「私」は、交換前の「私」と同一です。

そして、このような私の消去や交換は、想像の中だけでなく、同じようなことが実際に起こっています。例えば、この身体を構成する物質は数十年で全て入れ替わりますし、それに伴い私の思考の方法や記憶の内容も変化しますが、この世界を認識している「私」は、同一です。

ただし、同一であることの、対象として認識可能な根拠はありません。

私が、今の「私」を過去の「私」と同一であると思う理由は、想起された過去における「私」を、この私が、今の「私」と同一と判断していることのみです。

そして、認識する主体であり認識され得ない「私」は、今の「私」のみですので、想起された過去の中で、その世界を認識しているのは、今の「私」以外あり得ません。従って、この私には、同一であるという判断以外は出来ません。

また、過去の私を他者として捉えたとしても、想起された過去の中で、対象として認識された私の心身を認識している主体である「私」は、今の「私」です。

従って、過去に存在した任意の人間を私とみなしたとしても、私は、今の「私」と過去の「私」を同一と判断せざるを得ません。

これは過去に「私」が存在したことを示す、対象として認識可能な根拠はないということでもあります。

(余談ですが、デカルトの「我思う、故に我あり」という命題は、「故に我あり」と言った時点の「我」にとって「我思う」の「我」は、「過去の我」ですので、この二つの「我」が同一であることの、対象として認識可能な根拠はありません。従って、この命題の正しさを、対象として認識可能な根拠で証明することは出来ません。)

さて、過去に「私」が存在したとして話を進めます。

過去に存在した任意の人間を私とみなしたとしても、それが間違っていることを示すことは出来ない理由がもう一つあります。過去に存在した任意の人間から「私」が、今のこの私の心身に移動したとしても、私はそれに気付けないからです。

移動したことに気付くには、もとの心身にあった記憶や思考方法等を参照する必要がありますが、それらは「私」ではありませんので一緒に移動していません。

従って、移動後の「私」は移動先の心身にもとからあった記憶や思考方法等だけで、今の私と過去の私を比べるしかありませんので、気付くのは不可能なのです。

(これは「私」が時間軸上を不連続に移動する場合も当てはまります。過去あるいは未来の、任意の一時点から今に「私」が移動したとしても、「私」はそれに気付けません。また、もし、量子力学者達が主張するように、この世界とは内容が違う別の世界が複数あったとして、そういった別の世界からこの世界に「私」が移動しても、その移動に「私」は気付けません。)

つまり、現実世界内においても、想像の世界と同じく、同一なのは「私」のみであって、それ以外は全て消去や交換が行われているかもしれませんが、「私」がそれに気付くことはできません。


そして、今ここに「私」が存在することについても、対象として認識可能な根拠はありません。

そもそも「私」の同一性や存在の根拠について考えようとしたとき、頭に浮かんでいる「私」は、「私」に対象として認識されていますので、「私」ではありません。

もしも、「私」を認識し得る、より根源的な『私』を想定したとすると、その『私』の存在の根拠を考えなくてはならなくなります。

そして、その『私』の存在の根拠を考えるためには、その『私』を認識し得る、さらに根源的な…、と無限に続いていきますので、「私」の同一性や存在の根拠は考えることすら不可能です。

さらに、定義するということは対象として認識したということですので、最初の定義及び、ここまで書いてきたことは全て矛盾してます。(ここまでに書かれたカッコ付きの「私」も、認識されてますから実はカッコなしの“私”です。)

しかしそれでも、上記のように「私」には「私」が存在しない状態は想像すら不可能であり、存在しているとしか思えません。

このように「私」は「語り得ぬもの」です。

この「語り得ぬもの」についての哲学的に考察したのがルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインであり、その兄が左手のピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインです。

左手のみで弾くというハンデを抱えながら演奏するパウル・ウィトゲンシュタインの生き様から、決して語り得ぬ、彼の「私」を、私ははっきりと感じます。

戦争によって右手という認識可能な対象が失われても、彼の「私」は、その事態に屈しないことで、その存在を示していると私には思われるからです。(物理的あるいは心理的な法則に屈しない自由意志を持ち得るのは、認識の対象となり得ない主体しか考えられないからです。)

しかし、もちろん、「屈しない」というのは彼の心身の働きとして認識されたものであり、それが彼の認識され得ない主体を表しているかどうかを知ることは出来ません。

認識され得ない主体と認識され得る心身の働きとの間に何らかの関係があるのかどうかを理性や言語によって知ることは不可能だからです(「AとBの間にCという関係がある」という命題のうち、Aにあたるものを認識あるいは定義することが不可能ですので、この命題を完成させることができないからです。)

もしかすると、音楽は理性や言語では捉えられないそのつながり、言い換えると「私(一般的な言い方だと魂)」と心身のつながりを示す芸術しれません。

この私の考えが正しいとすると、音楽によって、哲学においては「沈黙」がその答えとされた謎(注※)に別の回答を与えることが出来るということになります。

(注※):ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と彼の主著、論理哲学論考で述べています。

いいなと思ったら応援しよう!