シン・エヴァンゲリオン

2021年、幾度となく映画館に足を運んで観たエヴァ。
2022年の一発目もエヴァで始めようともう一度観た。

改めて面白い。実に深い洞察で人間を描いている作品だと思う。

まず、ゲンドウの目指す人類補完計画は人間への絶望をベースにしている。
人は集団を為して生活する生き物だ。
当然そこにはルールが存在する。作中でも描かれていたけど、全てを拒絶し塞ぎ込み、食事に手を付けようともしないシンジが怒鳴られるシーン。
そこが象徴的だと感じた。
シンジの為に貴重なご飯を提供したんだから、その行為に対し、自らも美味しく平らげる事を強制される窮屈さ。
そういう窮屈さがゲンドウも嫌だったんだろう。
独白のシーンでもソコに触れていた。
だから他人を消してしまおうとした。自分と他人、その境界線ごと。
全てを均一にすれば差が無くなる。全ての不都合が解消されると考えた。
そして何も強制しない、全てを受け入れ包んでくれるユイと共に暮らしたい。それを叶えたい。
だからアナザーインパクトを起こそうとした。

しかし、同じ体験をしたはずのシンジは、そういった他人の強制を優しさと解釈し、そこから立ち直る。
他人を受け入れる事を選んだのだ。 
「どうしてみんな、そんなに優しいんだよ!!」
シンジのこの台詞が凄く印象的だ。
集団が定めるルールには常に、「みんなの為」という優しさが隠れているのだ。時には間違っていても。
だけどそれを受け入れてしまえば、他人や集団は常に優しいのだ。
だけどゲンドウはそうはなれなかった。

一方でミサト率いるヴィレの集団は人間の可能性を信じている。
歴史上の過ち、環境破壊、不条理。
そういったモノを全て包んだ上で、人間は良き方向に向かおうとしているという確信。
それを希望と呼んでいるのだと思う。
だから最終的にシンジはミサトを支持した。
父親であっても、他人と歩む世界を守るため、ゲンドウと対峙する事を選んだ。

エヴァの素晴らしいと思うところはここからで、結末を造り手が断定しないところだ。
あくまでも主人公、碇シンジの選んだ世界はこちらですよ程度で、造り手側が一元的に結末を提示していない。
観る側からすれば、どちらの言い分も分かる。ゲンドウの提示した結末は極端かもしれないが、世の中を変えるには致し方ないという選択なんだろう。
現在を変えようとするとカオスが生じる。それも神が作りし世界なら尚更だ。
だから仕方のない犠牲もあるのだ。
逆にミサトやシンジは人間のこれまでに目を瞑ろう、ただ信じてみようという選択だ。

どちらが正しかったのか、どちらが正しいのか、自分には分らない。
でも自分もシンジ同様、他人と他人のままで繋がっているこの世界の方が居心地よく感じている。

こんな事を考えさせてくれるエヴァは改めて尊い作品だと思った。

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